私たちが暮らす地球の海は、地球温暖化の影響で静かに、しかし確実に変化しています。特に心配されているのが、海中の酸素が減ってしまう「海洋脱酸素化」という現象です。魚たちが生きるには酸素が不可欠ですから、これは私たちの食卓や豊かな海の恵みにも直結する、非常に大切な問題なんです。
近年、気候変動対策として大気中の二酸化炭素(CO₂)を減らす様々な技術が注目されていますが、実はその一部が、かえって海の酸素問題を悪化させるかもしれないという警鐘が鳴らされています。今回ご紹介するのは、インドのメディア「Indian Defence Review」が報じた「Study Warns: Carbon Dioxide Removal Methods Could Trigger Ocean Oxygen Crisis - Indian Defence Review」という研究結果です。このニュースは、地球温暖化対策を進める上で、私たちが見落としてはいけない大切な視点を示しています。
海の酸素が減っている現状とその深刻さ
ここ数十年で、世界の海の酸素量は約2%も減少していることが分かっています。地球温暖化が進むにつれてこの減少はさらに加速すると予測されており、すでに多くの海洋生物がこの環境変化に適応するのに苦しんでいます。例えば、酸素が少ない「デッドゾーン」と呼ばれる海域が広がり、そこに生息する生き物たちが追いやられたり、死んでしまったりする現象が起きています。これは、海の生態系全体に大きな影響を与えかねない深刻な問題なのです。
気候変動を抑えるための対策は様々に提案されていますが、今回の研究では、大気中のCO₂を減らすことを目指す一部の方法が、かえって海の酸素をさらに減らす可能性があると指摘しています。
「海洋二酸化炭素除去(mCDR)」の方法と隠されたリスク
「海洋二酸化炭素除去(mCDR)」とは、海がCO₂を吸収する能力を高めるための様々な技術の総称です。これらの技術の多くは、気候変動対策の切り札として期待されています。しかし、今回の研究で特に懸念されているのは、海の酸素レベルに意図せぬリスクをもたらす可能性です。
特に問題視されているのは、生物学的mCDR法と呼ばれる方法です。これには、プランクトンなどの成長を促すための「海洋肥沃化」、大規模な「海藻養殖」、そして深層の栄養豊富な水を表面に上げる「人工湧昇」といった手法が含まれます。
これらの方法は、光合成によって生物の量を増やし、CO₂を吸収させることが目的です。しかし、増えた生物はやがて死んで海底に沈み、分解される過程で大量の酸素を消費してしまいます。今回の研究の主導者であるProf. Dr. Oschlies氏は、「気候に良いことが、必ずしも海に良いとは限らない」と述べ、この重要な問題を強調しています。
生物学的mCDR法が海の酸素に与える影響
海洋肥沃化や海藻養殖といった生物学的mCDR法は、海の酸素量をさらに減らす可能性があります。生物が増えれば増えるほど、その分解にはより多くの酸素が使われるからです。これは、地球温暖化ですでに進んでいる酸素の減少をさらに悪化させることにつながりかねません。
研究によれば、これらのプロセスによる酸素減少は、CO₂排出量削減によって得られるはずの酸素増加の4倍から40倍にもなる可能性があるという驚くべき結果が出ています。Prof. Dr. Oschlies氏はさらに、「海で生物の生産を増やし、その結果酸素を消費する分解を引き起こすような方法は、無害な気候変動対策とは言えない」と強く指摘しています。このことは、気候変動対策を実施する際には、それが既存の海の課題を悪化させないよう、慎重に評価する必要があることを意味しています。
より安全な選択肢?地球化学的mCDR法
一方、地球化学的mCDR法は、生物学的アプローチとは対照的に、海の酸素レベルへの影響が少ないと考えられています。例えば、「海洋アルカリ度向上」という方法では、石灰石をベースとしたアルカリ性物質を海に加えることで、海水のCO₂吸収能力を高めます。
これらの方法は、栄養分を投入して生物を増やすわけではないため、海洋酸素濃度への影響は最小限に抑えられる可能性があります。研究では、地球化学的アプローチは、単にCO₂排出量を削減するのと同程度の効果が海の酸素にもたらされると示唆しています。生物学的mCDR法のように酸素を消費する分解が起きないため、海の環境にとってはより安全な選択肢になり得るのです。ただし、これらの方法が大規模に実行可能か、そして長期的にどれほどの効果があるかについては、さらなる評価が必要です。
大規模な海藻養殖とバイオマス収穫の可能性
今回の研究の中で、唯一海の酸素にとって良い影響を与える可能性があるとされたmCDR法は、バイオマス収穫を伴う大規模な海藻養殖でした。他の方法が分解による酸素消費を増やすのに対し、海藻を育てて収穫し、海から取り除くことで、海中の栄養分を減らし、他の場所での過剰な酸素消費を抑制できる可能性があるのです。
シミュレーションモデルでは、この方法によって、気候変動による温暖化で失われた酸素の最大10倍もの酸素を、1世紀のうちに回復できる可能性があると示されました。これは非常に希望的な結果です。しかし、研究は同時に、大規模な収穫が海の生物生産性を乱す可能性があり、その広範な環境影響を慎重に検討する必要があるとも警鐘を鳴らしています。
日本の海洋環境と未来への提言
四方を海に囲まれ、古くから海の恵みと共に生きてきた日本にとって、海の健康は非常に身近で重要な課題です。漁業は基幹産業の一つであり、美しい海岸線は観光資源でもあります。もし海の酸素が減り続ければ、日本の豊かな漁場は失われ、多様な海洋生物の生息環境も脅かされるでしょう。これは、私たちの食文化や経済、そして自然環境に大きな打撃を与えることになります。
今回の研究は、気候変動対策を考える上で、その対策が海洋環境にどのような影響を与えるかという「総合的な視点」が不可欠であることを教えてくれます。私たち人間は、気候変動という大きな問題に立ち向かうために、新しい技術を開発し、導入しようとしています。しかし、その技術が予期せぬ形で別の環境問題を悪化させてしまっては、本末転倒です。
今後、日本を含む世界各国がmCDR技術を推進する際には、単にCO₂削減効果だけでなく、海の酸素濃度や生態系全体への影響を徹底的に評価し、慎重に選択していく必要があります。特に、海藻養殖によるバイオマス収穫のように、潜在的にポジティブな影響が期待される方法については、その持続可能性や生態系への影響を詳しく調べ、安全な実施方法を確立していくことが求められます。
私たちは、地球温暖化と海の健康という二つの重要な課題に対し、どちらか一方を犠牲にするのではなく、両方を守るための賢明な解決策を見つけ出さなければなりません。そのためには、科学的な知見に基づいた冷静な判断と、国際社会の協力が不可欠です。海の未来は、私たちの選択にかかっています。