私たちが普段生活する上で、地球温暖化の原因の一つとして名前が挙がる「メタンガス」。しかし、そのメタンガスが、深海の不思議な生き物たちにとっては大切な「食べ物」になっているとしたら、皆さんは驚くでしょうか?
先日、米CNNが報じたFirst methane-powered sea spiders found crawling on the ocean floor - CNNというニュースは、まさにそんな深海の常識を覆すような発見について伝えています。アメリカの西海岸沖の深海で、これまで知られていなかった3種類のウミグモが発見され、なんとメタンガスをエネルギー源として生きていることが明らかになったのです。地球の気候変動を考える上で「悪者」とされがちなメタンが、深海では生命を育む糧になっているという、この最新の発見は、私たちに深海の豊かさと謎、そしてその保全の重要性を改めて教えてくれます。
深海の「メタン湧水」で生きるウミグモたち
今回の発見の舞台となったのは、海底からメタンガスが噴き出す「メタン湧水」と呼ばれる特殊な環境です。深海の底、太陽の光が届かない真っ暗な場所では、生物たちは私たちが想像もしない方法で生き抜いています。通常、地球上の多くの生物は太陽の光を使ってエネルギーを作る「光合成」に頼っていますが、深海では光がないため、化学物質をエネルギーに変える「化学合成」という方法が主流となります。まるで、私たちが太陽光発電に頼るのではなく、天然ガスを燃やして発電するようなものだと考えると、少しイメージが湧きやすいかもしれませんね。
ウミグモとバクテリアの驚くべき「共生関係」
今回発見されたのは、「セリコスラ」属に分類される3種類の新しいウミグモです。このウミグモたちは、体長がわずか0.4インチ(約1センチメートル)ほどと非常に小さく、半透明の体を持っています。彼らは、海底から数千フィート(数百メートル)も深いメタン湧水の周りに生息しており、その体の「外骨格」(体の外側を覆う硬い骨格、カニやエビの甲羅のようなもの)に、メタンガスをエネルギーに変える特殊なバクテリアを「飼育」していることが分かりました。
この関係は「共生関係」と呼ばれ、お互いに助け合って生きる仕組みです。具体的には、ウミグモはバクテリアに住む場所を提供し、バクテリアはメタンガスと酸素を使って、ウミグモが食べられる糖分や脂肪を作り出します。論文の筆頭著者であるオクシデンタル大学のシャナ・ゴフレディ教授は、「まるで朝食に卵を食べるように、ウミグモは自分の体の表面に生えているバクテリアを食べて栄養を得ている」と説明しています。これまでウミグモには見られなかった、非常に珍しい栄養摂取戦略だそうです。
他の多くのウミグモは、クラゲなどの柔らかい生き物を捕らえて体液を吸い取る捕食者ですが、この新種のウミグモには、獲物を捕らえるための特別な付属器(手足のようなもの)がないことも観察から判明しました。これは、彼らが自らの体でバクテリアを「育て、収穫する」農家のような存在であることを示唆しています。
地球温暖化対策にも貢献?
メタンガスは、二酸化炭素の次に地球温暖化への影響が大きいとされる温室効果ガスです。しかし、今回の発見は、深海のウミグモとその共生バクテリアが、このメタンガスが大気中に放出されるのを防ぐ上で、重要な役割を果たしている可能性を示しています。
ゴフレディ教授は、「深海はとても遠い場所に感じられるかもしれませんが、地球上のすべての生物はつながっています。彼らは小さくても、その環境では大きな影響力を持っているのです。海を深く理解しなければ、持続可能な海の利用は望めません」と語っています。深海の生命活動が、私たちが住む地上の環境にまで影響を与えているというのは、驚くべきことですね。
次世代へ引き継がれる「メタン食」の知恵
今回の研究では、この小さなウミグモたちが、どのようにしてメタンを食べる能力を次の世代へと伝えているのかも明らかになりました。ウミグモのメスは膝の部分から数百個の卵を産み、オスはそれを自分の脚にブレスレットのように巻き付けて持ち運びます。卵が孵化すると、オスウミグモの体に付着していたバクテリアが、生まれたばかりの幼体にしっかりと受け継がれる様子が観察されました。これは「マイクロバイオーム伝播」と呼ばれ、親から子へ微生物の集団(マイクロバイオーム)が受け継がれる現象です。
研究に参加していないマックス・プランク海洋微生物学研究所のニコール・デュビリエ教授は、動物のマイクロバイオーム伝播を研究することは、私たち人間の腸内細菌が母親から新生児へどのように受け継がれるかを理解する上で役立つ可能性があると指摘しています。深海の小さなウミグモの生態が、人間の健康の謎を解き明かすヒントになるかもしれないというのは、なんとも壮大な話です。
日本への示唆と今後の展望
日本は、世界でも有数の排他的経済水域を持つ海洋国家であり、その海底には「南海トラフ」や「日本海溝」といった広大な深海域が広がっています。JAMSTEC(国立研究開発法人海洋研究開発機構)をはじめとする日本の研究機関も、これまで活発に深海探査や生物多様性の研究を進めてきました。
今回のメタンを食べるウミグモの発見は、日本の深海にも同様の、あるいはさらに多様な、独自の生態系が秘められている可能性を示唆しています。例えば、日本近海にはメタンハイドレートという天然ガスの固まりが豊富に存在することが知られており、その開発には大きな期待が寄せられています。しかし、深海の環境は非常にデリケートで、一度破壊されてしまうと元に戻すことが困難な、固有の生物たちが暮らす場所です。
ゴフレディ教授が指摘するように、「人々は深海を均一な生態系と考えがちですが、それは全く違います。地域によって生物多様性は非常に豊かで、動物たちは特定の生息地に限定されています。例えば、海底を採掘するような利用を考える際には、非常に注意が必要です。他に類を見ないような特定の生息地に、修復不可能な被害を与えることのないようにしたいものです」と述べています。この言葉は、私たち日本が将来の海洋資源開発や利用を考える上で、非常に重い意味を持つでしょう。
今回のウミグモの発見は、私たちがまだ知らない深海の生命の営みが、地球全体の環境システムの中でどれほど重要な役割を果たしているかを教えてくれます。メタンを分解するバクテリアの能力は、将来的には水質汚染の浄化など、新たなバイオテクノロジーへの応用にもつながるかもしれません。深海は単なる資源の宝庫ではなく、地球の生命の多様性と複雑性を理解するための重要なフロンティアなのです。
深海の生命が教えてくれること
今回の「メタンを食べるウミグモ」の発見は、私たちがまだ知らない地球の謎がいかに多いかを改めて教えてくれるニュースでした。メタンという、時に厄介者とされる物質が、深海では生命を育む源となっている。そして、親から子へと微生物が受け継がれることで、その特別な「食生活」が維持されていくという、驚くべき生命のつながり。
深海は、まるで地球に残された最後の未開の地です。しかし、そこには計り知れない生物多様性と、地球の環境システムを維持する上で重要な役割を果たす生命の営みが広がっています。今回の発見のように、一つ一つの研究が深海の理解を深め、私たちがこのかけがえのない地球と共存していくためのヒントを与えてくれます。これからも深海でどんな驚きが待っているのか、その研究の進展に注目していきたいですね。
