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脳の記憶整理術「Vector-HaSH」モデルが解明!日本への応用は?

「昨日どこでランチを食べたっけ?」「先週あった友達との会話、どんな順番で話したかな?」私たちは日々、たくさんの出来事を順番通りに記憶し、必要なときに思い出しています。しかし、脳が一体どのようにして、これらの記憶をバラバラにせず、きちんと整理して蓄えているのか、その仕組みは長年の謎でした。

そうした私たちの疑問に、最新の研究が光を当てています。このたび、私たちの脳が記憶を「順序立てて」保管するための賢いトリックを使っていることが、新たなモデルによって明らかになりました。まるで図書館の目録のように、脳が膨大な情報を整理する驚くべき方法について、Earth.comの科学記事「Human brains use a storage trick to keep your memories in sequential order」の内容を詳しく見ていきましょう。

脳は記憶をどう整理する? 最新モデル「Vector-HaSH」の発見

私たちが何かを経験すると、脳はそれを記憶として保存します。今回の研究で特に注目されているのが、脳の奥深くにある海馬(かいば)と呼ばれる部分と、その隣にある内嗅皮質(ないきゅうひしつ)という領域です。これら二つの領域には、場所細胞(ばしょさいぼう)グリッド細胞という、記憶の整理に深く関わる特別な神経細胞があることが知られていました。

  • 場所細胞(Place cells):約半世紀前に初めて報告された神経細胞で、動物が特定の場所で活発になることが示されています。例えば、ラットが迷路の特定の角に差し掛かると、特定の場所細胞が「ここだ!」と反応するようなイメージです。
  • グリッド細胞(Grid cells):内嗅皮質にある細胞で、動物が広い場所を動き回るときに、三角形の格子状のパターンで規則的に活動します。まるで、脳の中に自分だけの「地図の目盛り」を作るような働きをしています。

これまで、これらの細胞が「記憶の足場(Scaffold)」として機能し、空間的な情報や個人的な経験を、バラバラにならないように固定していると考えられてきました。そして今回発表されたVector-HaSH(Vector hippocampal scaffolded heteroassociative memory)という新しいモデルは、この仕組みをさらに詳しく説明しています。

このモデルが示すのは、海馬が「索引(インデックス)」のような役割を果たすということです。海馬自身が記憶のすべての詳細を保存するのではなく、広大な感覚野(五感で得た情報を処理する脳の部分)に保存されている、より細かい記憶の「場所」を指し示すポインター(指針)を持っているというのです。ちょうど、図書館の目録が「この本は3階のあそこの棚にあるよ」と教えてくれるように、海馬は私たちが記憶を思い出すときに、脳の正しい場所へ案内してくれるわけです。「このモデルは、内嗅皮質と海馬のエピソード記憶回路のドラフトモデルです。私が本当に興奮しているのはその点です」と、MITマクガバン脳研究所の研究員であり、今回の論文の責任著者であるイーラ・フィーテ氏は述べています。

記憶の司令塔「海馬」とは? その重要な役割

海馬は、脳の内側側頭葉(ないそくそくとうよう)という部分の奥深くに位置しています。まるで海馬(タツノオトシゴ)のような形をしていることから、その名がつけられました。この海馬は、私たちの記憶にとって非常に重要な役割を担っています。

  • 短期記憶から長期記憶への変換:海馬の最も重要な役割の一つは、私たちが経験した出来事や学んだ情報を、一時的な短期記憶から、長く保持できる長期記憶へと変換することです。もし海馬がなければ、経験したことはすぐに忘れ去られてしまいます。
  • 空間ナビゲーション:海馬は、私たちが周囲の空間を認識し、心の中に地図を作り、環境の中で自分自身の位置を把握するのを助けます。初めて訪れる場所でも、道に迷わずに目的地にたどり着けるのは、海馬のおかげなのです。
  • 感情との連携:海馬は扁桃体(へんとうたい)前頭前皮質(ぜんとうぜんひしつ)といった脳の他の部分とも密接に連携しています。扁桃体は感情の処理に、前頭前皮質は計画や意思決定といった高度な思考に関わります。これらの連携によって、私たちは経験から学び、出来事に対して感情的に反応することができます。
  • 神経新生(ニューロン新生):興味深いことに、海馬は大人になってからも新しい神経細胞ニューロン)を生み出すことができる、非常に柔軟な(プラスチックな)性質を持っています。このプロセスは神経新生と呼ばれ、記憶機能の維持や向上に貢献すると考えられています。

映画『メメント』の主人公のように、新しい記憶を形成できなくなる前向性健忘(ぜんこうせいけんぼう)という記憶障害は、海馬の損傷によって引き起こされることがあります。アルツハイマー病の患者さんや、脳の損傷、脳卒中を経験した患者さんにも見られます。

「足場」の仕組み:記憶を整理する賢い方法

グリッド細胞は、脳の中にまるで美しい幾何学模様のような「三角形の格子状パターン」を作り出します。一つ一つの三角形の区画は、研究者たちによって「井戸(well)」と呼ばれています。この「井戸」こそが、特定の出来事を示す「ラベル(目印)」の役割を果たしていると今回のモデルは提案しています。ただし、重要なのは、記憶の内容そのものがこの「井戸」の中に保存されているわけではない、という点です。

例えるなら、それぞれの「井戸」は、図書館の貸し出しカードのようなものです。カード自体には本の細かい内容が書かれているわけではありませんが、「このカードは〇〇という本の情報を参照している」というように、感覚野に保存されている実際の記憶の場所を指し示しているのです。この仕組みのおかげで、新しい情報がどんどん入ってきても、脳はそれらを整理し、古い記憶が自然に薄れていくのを助けてくれます。

従来のコンピューターモデルでは、新しい情報が入ってくると、古い情報が突然失われてしまう「記憶の崖(memory cliff)」という問題がよく発生していました。しかし、今回のVector-HaSHモデルは、この「記憶の崖」を回避できることを示しています。これは、実際の脳の神経ネットワークが、新しい記憶と古い記憶の両方を、限界なく(または非常に柔軟に)受け入れることができる仕組みを反映していると言えるでしょう。

日常と記憶術への応用、そして日本への示唆

今回の研究結果は、私たちが日常生活で記憶力を高める方法や、記憶術の科学的な裏付けにもつながる可能性があります。例えば、古くから伝わる「記憶術」の一つに「記憶の宮殿(memory palace)」という手法があります。

この記憶術は、心の中に馴染みのある場所(例えば自分の家や学校)を思い描き、覚えたい情報をその場所の特定のポイントに順番に「置いていく」というものです。後で情報を思い出したいときには、その場所を心の中でたどっていけば、置いた情報が自然に蘇る、という仕組みです。まるで、自分の脳の中に仮想の図書館を作り、本を整理するように情報を配置するようなイメージです。

今回の新しいモデルは、この「記憶の宮殿」がなぜ効果的なのかを、脳の働きから説明できるかもしれません。つまり、脳がもともと持っている空間記憶の「足場」や「索引」の仕組みを上手に利用することで、新しい情報をより効率的に、そして大量に記憶できるようになる可能性があるのです。

日本社会への示唆

  • 教育現場での応用:日本の教育では、歴史の年号や英単語、漢字の書き順など、順序立てて覚えるべき情報がたくさんあります。今回の研究が示す脳の記憶メカニズムを理解することで、より効果的な学習方法や記憶術を開発し、導入できるかもしれません。例えば、教科書の内容を「空間」や「物語」に関連付けて教えることで、子供たちの記憶定着率が向上する可能性も考えられます。
  • 高齢化社会における記憶力の維持:日本は急速に高齢化が進んでおり、認知症や加齢による記憶力の低下は大きな課題です。海馬が持つ神経新生の能力や、記憶を整理するメカニズムを深く理解することは、記憶力を維持・向上させるための新しいトレーニング方法や、認知症の予防・治療法の開発につながる可能性があります。
  • AI技術の発展:人間の脳がどのようにして膨大な情報を整理し、順序立てて記憶するのかという知見は、人工知能(AI)の発展にも貢献するでしょう。特に、AIが新しい情報を効率的に学習し、既存の知識と矛盾なく統合する「段階的学習(incremental learning)」の分野で、今回のモデルがヒントを与えるかもしれません。まるで人間のように、AIが新しい経験を積み重ねても、これまでの記憶を失わずに賢いシステムを構築できる可能性が秘められています。

記憶の順序付けの仕組み

私たちは時に、出来事を正確な順序で思い出したいことがあります。今回のフレームワークは、それぞれの「井戸(well)」が次に何が来るかを示す手がかりを持っていることを強調しています。

これにより、私たちはそれらの経験を正しい順序で再生することができます。このモデルは、場所に基づいた詳細と経験に基づいた詳細の両方について、同じ配置を利用しています。

先週どこで昼食を食べたか、あるいは険しいハイキングコースをどのように進んだかといった記憶は、同じ「足場」から呼び起こされます。適切な「井戸」へと導く索引を辿れば、残りの情報は自然に整然と現れるのです。

記憶の未来を拓く研究

今回の研究は、私たちが日々経験する出来事が、時間の経過とともにどのように「一般的な知識(意味記憶)」へと変化していくのか、また、個人の経験がどのようにして文脈から切り離されていくのかといった、記憶のさらなる謎を解き明かすための基礎となるものです。記憶がどのように「チャンク(塊)」として定義・整理されるのか、といった疑問も、今後の研究課題とされています。

そして、この新しいモデルVector-HaSHが、より効率的な機械学習(AIの学習方法)を促進する可能性についても、研究者は期待を寄せています。脳がどのように情報を整理し、順序立てるのかを理解することは、AIシステムが段階的な学習をより上手に処理するのに役立つかもしれません。

今回の研究は、海馬と内嗅皮質の神経回路が、突然の記憶喪失を起こすことなく、膨大な量の情報を保存するための統合された参照システムを形成しているという考えを強く支持しています。太古の昔、私たちの祖先が森や砂漠を移動するために使っていたのと同じ脳の回路が、現代の私たちが誕生日パーティーの思い出や毎日の買い物リスト、人生の大きな節目といった複雑な記憶も管理している。この事実こそが、人間の脳の計り知れない可能性と驚異的な柔軟性を示していると言えるでしょう。

この研究は科学誌『Nature』に掲載されました。