私たちの思考や感情、そして「私」という意識は、脳内でどのように生まれるのでしょうか。この長年の謎に、量子力学の観点から迫る画期的な研究が登場しました。米国の科学技術メディア『Popular Mechanics』が報じた「Quantum Entanglement in Your Brain Is What Generates Consciousness, Radical Study Suggests」という記事によると、上海大学の研究チームが、脳内で量子もつれという不可思議な現象が起きている可能性を数学的モデルで示したのです。
かつて「意識は量子現象だ」という理論はSFのように扱われてきましたが、今回の研究は、その可能性を科学的に探る新たな一歩となるものです。この記事では、脳と量子の意外な関係を紐解き、私たちの意識の謎に迫ります。
意識は計算不可能?量子脳理論の歴史と反論
「脳の機能に量子力学が関わっている」という考えは、実は新しいものではありません。1990年代、イギリスの数理物理学者ロジャー・ペンローズ氏と、アメリカの麻酔科医であるスチュワート・ハメロフ氏は、「意識は脳内の量子過程に由来する」とする「Orchestrated objective reduction(Orch OR)モデル」を発表しました。この理論は、人間の意識が従来のコンピュータでは計算不可能な、高度な量子プロセスによって生み出されるという大胆な仮説でした。
しかし、この理論は長年、科学界で懐疑的に見られてきました。主な反論は、「脳は温かく雑然とした環境であり、極低温でなければ維持が難しいとされる量子現象が起こるはずがない」というものでした。体温があり、無数の化学物質が飛び交う脳内で、繊細な量子の状態が維持できるとは考えにくかったのです。
上海大学の新発見:「ミエリン鞘」が量子現象の舞台か
こうした長年の議論に一石を投じたのが、上海大学の研究チームによる最新の研究です。科学ジャーナル『Physical Review E』に掲載されたこの研究は、数学的モデルを用いて、脳の神経細胞(ニューロン)の軸索を覆う「ミエリン鞘(ずいしょう)」という構造に注目しました。
ミエリン鞘は、神経信号の伝達速度を高める「絶縁体」のような役割を果たす脂肪質の層です。研究チームは、このミエリン鞘が、特定の条件下で量子もつれ状態にある光子のペア「Biphoton pairs」を生成する環境を提供できる可能性があることを示唆しました。
これまで脳の機能とは直接関係ないと考えられてきた構造が、実は量子現象の舞台になっているかもしれないのです。これは、脳に対する私たちの理解を大きく変える可能性を秘めています。
「不気味な遠隔作用」が脳の情報処理を加速させる?
では、もし脳内で「量子もつれ」が本当に起きているとしたら、どのような意味を持つのでしょうか。
量子もつれとは、2つの粒子がどれだけ離れていても、片方の状態が決まるともう片方の状態が瞬時に決まるという、アルベルト・アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と表現した現象です。この現象が脳内で利用されているとすれば、数百万ものニューロンが瞬時に情報を共有し、活動を一致させる「同期(シンクロナイゼーション)」の謎を説明できるかもしれません。
脳が複雑な情報を驚くほど高速かつ効率的に処理できるのは、この量子的な情報伝達のおかげである可能性もあります。上海大学のYong-Cong Chen教授が「脳における遠隔作用の理想的な候補」と述べるように、量子もつれは、私たちの思考や意識の根源的なメカニズムを解明する鍵となるかもしれないのです。
今後の課題:生きた脳で「量子の証拠」を掴めるか
今回の上海大学の研究は、あくまで数学的なモデルに基づくものであり、この仮説が科学的に認められるまでには、多くのハードルが残されています。
最大の課題は、生きた脳の中で、この量子現象を実験的に観測することです。研究チーム自身も認めているように、このモデルが実際の生物学的な環境、例えばマウスの脳などで検証される必要があります。活動中の脳を傷つけることなく、極めて繊細な量子の振る舞いを捉える技術はまだ確立されておらず、その実現が今後の大きな課題です。
かつて「奇抜すぎる」とされたペンローズとハメロフの理論のように、量子意識という考え方はまだ科学の主流ではありません。しかし、こうした挑戦的な仮説が厳密な検証を経て、私たちの常識を覆してきたのが科学の歴史です。
記者の視点:常識を疑うことから始まる科学の進歩
「脳は温かく雑然としているため、量子現象は起きない」というのが長年の常識でした。しかし、この研究は「生命は、その『雑然さ』の中でこそ機能する、未知の量子メカニズムを進化させてきたのではないか?」という新しい視点を私たちに与えてくれます。
私たちが日常で感じる「ひらめき」や、言葉にできない複雑な感情、そして「私」という揺るぎない感覚。これらが単なる電気信号のやり取りだけでなく、量子の「もつれ」のような、目に見えない深いつながりによって生まれているとしたら、なんとロマンのある話でしょうか。
この研究は、まだ証明された事実ではありません。しかし、こうした大胆な仮説こそが科学を進歩させ、私たちに世界の新しい見方を教えてくれます。
量子脳研究が拓く未来:「私」という存在の再定義
今回の上海大学の研究は、「私たちの意識はどこから来るのか」という、人類の根源的な問いに新たな光を当てました。もし、生きた脳の中で量子の証拠が発見されれば、その影響は計り知れません。
神経科学や生命科学はもちろん、人工知能(AI)の開発にも革命が起きるでしょう。現在のAIとは全く異なる原理で動く「意識を持つ機械」が、現実のものとなるかもしれません。
そして何より、私たち自身の「私」という存在に対する見方が根底から変わる可能性があります。自らの意識という最も身近な謎に、宇宙の根源に関わる物理学が結びつくかもしれない――。その壮大な可能性に、私たちはもっとワクワクしても良いのかもしれません。
