生命の基本元素であるリンの代わりに、猛毒のヒ素を利用して生きる微生物がいる——。かつて科学界を揺るがした「ヒ素生命体」に関する論文が、発表から15年近くにわたる論争の末、科学誌『Science』によって正式に撤回されました。生命の常識を覆す可能性を秘めた大発見は、なぜ覆され、科学の世界に何を残したのでしょうか。
この記事では、Live Scienceの報道「Embattled 'arsenic life' paper retracted by journal Science 15 years after publication」などを参考に、その経緯と科学的な背景に迫ります。
世紀の発見か?「ヒ素生命体」の衝撃
2010年、科学界に衝撃が走りました。アメリカ・カリフォルニア州の塩湖「モノ湖」で発見された微生物「GFAJ-1」が、既知の生命の常識を覆す可能性を秘めていると発表されたのです。
地球上のすべての生命は、DNAやRNAといった遺伝情報を担う核酸に「リン」(phosphorus)を不可欠な構成要素としています。しかし、当時NASA宇宙生物学研究所に所属していたフェリッサ・ウルフ=サイモン氏率いる研究チームは、このGFAJ-1が、リンの代わりに猛毒である「ヒ素」(arsenic)をDNAに取り込んで成長できると報告しました。
この発見は、生命の定義そのものを書き換える可能性を秘めていました。もしヒ素を骨格とする生命が存在するなら、地球外の過酷な環境にも、私たちの想像を超えた生命が存在するかもしれない——。この発見は「宇宙生物学(astrobiology)」における画期的な成果とされ、NASAも大々的に発表し、世界中の注目を集めました。
なぜ「ヒ素生命体」説は否定されたのか?科学の厳格な検証
しかし、このセンセーショナルな発表の直後から、多くの科学者が研究手法やデータの解釈に疑問を呈しました。翌2011年、『Science』は本論文とその科学的欠陥を指摘する8つの技術的コメントを同時に掲載するという異例の対応を取り、論争はさらに活発化しました。
批判の核心は、分析手法の欠陥、特に核酸の精製が不十分だった点にありました。専門家たちは、この不備により「ヒ素がDNAの骨格に本当に取り込まれたのか」を証明できていないと指摘。さらに、実験で使われた培地に不純物として微量のリンが残留していた可能性から、「GFAJ-1はヒ素を利用しているのではなく、極めて少ないリンを効率的に使い、高いヒ素耐性で生き延びているに過ぎない」という対立仮説が有力視されるようになりました。
科学的な主張の正しさを担保する上で極めて重要なのが、第三者が同じ実験を行って同じ結果を確かめられるかという「再現性」です。2012年には、2つの独立した研究チームが再現実験の結果を発表し、いずれも「GFAJ-1は高濃度のヒ素に耐えることはできるが、リンの代わりにヒ素を生命活動に利用することはできない」と結論付けました。これにより、「ヒ素生命体」説は科学的にほぼ否定された形となったのです。
『サイエンス』誌の撤回と著者の反論
そして2025年7月、ついに『Science』誌は本論文を正式に撤回しました。同誌の編集長H. Holden Thorp氏と執行編集者Valda Vinson氏は、撤回の理由を先行研究で指摘された分析手法の欠陥に求め、「論文の中核的結論が、複数の証拠によって裏付けられていない」と説明しました。
一方で、論文の著者たちはこの撤回に同意していません。彼らは「論文の結論に関する論争は、科学のプロセスにおいて正常なことだ」と主張。さらに、「我々の研究はもっと徹底的に記述し議論できたかもしれないが、報告されたデータは支持できるものである」と述べ、自らの研究の正当性を訴えています。
意図的な不正がなくとも、データに重大な欠陥があれば論文は撤回されるという現代の科学界の方針は、研究の信頼性に対する責任の重さを示しています。今回の決定は、15年近くに及んだ論争に一つの終止符を打ちました。
科学は「間違い」をどう乗り越えるか:「ヒ素生命体」論争が示す自己修正の力
15年近くに及んだ論争の末の論文撤回は、「ヒ素生命体」という夢の終わりを告げるものかもしれません。しかしこれは科学の「失敗」ではなく、むしろその「健全さ」を示す出来事です。
科学とは、一度発表された仮説が、多くの専門家による厳しい検証と再現実験を経て、真実へと近づいていくプロセスそのものです。間違いを認め、修正していくこの営みこそが、科学の信頼性を支える自己修正機能にほかなりません。今回の撤回は、まさにその機能が正しく働いた証拠と言えるでしょう。
権威ある機関からの華々しい発表も、科学の世界では検証されるべき一つの仮説に過ぎません。この「ヒ素生命体」をめぐる壮大な物語は、未知への挑戦には厳しい検証が不可欠であること、そしてそのプロセスこそが科学を着実に前進させる力になることを教えてくれます。この教訓は、今後の宇宙生物学をはじめとする科学探究において、より確かな一歩を踏み出すための貴重な道しるべとなるはずです。
