かつてSFの世界の出来事だった「生きているコンピューター」が、現実のものになろうとしています。人間の細胞からコンピューターを作り出す研究が、今、世界中の科学者たちの間で加速しています。
この革新的な分野の最前線を報じたBBCの記事「『生きた』コンピューターを開発へ、人間の細胞で動かす研究に挑む科学者たち」を基に、驚くべき「バイオコンピューティング」の現在地と、その未来に迫ります。
「ウェットウェア」:生きた細胞が計算する仕組み
私たちが普段使うコンピューターは、物理的な部品「ハードウェア」とプログラム「ソフトウェア」で動いています。これに対し、生きた細胞や組織を計算の基盤とする新しい概念が「ウェットウェア」です。
この研究をリードするスイスの企業FinalSparkは、人間の皮膚細胞から作られた幹細胞(様々な細胞に分化する能力を持つ細胞)を用いて、脳を模したミニチュア組織オルガノイドを培養しています。
この「ミニ脳」とも呼ばれるオルガノイドは、電極から送られる電気信号に反応し、その活動を記録することができます。この仕組みは、生物の脳が持つ効率的な情報処理能力を応用するもので、いずれは大量の電力を消費する現在のAIに代わる、省エネルギーな計算基盤となることが期待されています。
広がる可能性:省エネAIから難病治療まで
バイオコンピューティング研究の応用先は、省エネだけにとどまりません。オーストラリアの企業Cortical Labsは、培養したヒトの脳細胞にビデオゲーム「ポン」をプレイさせることに成功し、大きな注目を集めました。
また、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学では、この技術をアルツハイマー病や自閉症といった神経疾患の研究に応用しています。ミニ脳が情報を処理する様子を観察することで、病気の仕組みを解明し、新しい治療法を開発する手がかりが得られるのです。専門家は、この技術が現在のAIを「置き換える」のではなく、病気の精密なモデル作りなどを通じてAIを「補完する」役割を担い、動物実験の削減にも繋がると考えています。
生物の脳が持つ、ごくわずかなエネルギーで高度な処理を行う能力は、地球規模のエネルギー問題解決にも貢献するかもしれません。世界トップレベルの幹細胞研究やオルガノイド培養技術を持つ日本も、この分野で大きな役割を果たすことが期待されます。
生命と機械の境界:立ちはだかる課題と倫理的な問い
大きな可能性を秘める一方、この技術は多くの課題に直面しています。FinalSpark社のミニ脳は電気信号に反応するものの、その反応は常に予測できるわけではなく、「学習能力」を持たせる方法はまだ手探りの状態です。
さらに深刻なのが、オルガノイドの生存期間が現在最長で4ヶ月ほどと短いことです。しかし、この「死」の過程で、研究者たちは興味深い現象を発見しました。オルガノイドが活動を停止する直前、一時的に活動が急激に高まる様子が、過去5年間で1,000〜2,000件も記録されているのです。
この現象は、一部の人間が死の間際に見せる脳活動の上昇とも似ており、生命と機械の境界線を曖昧にします。私たちは、生命を「部品」として扱うことの倫理的な意味を真剣に考えなければなりません。もしこの「生きているコンピューター」に、いつか意識や感情のようなものが芽生えたとしたら、私たちはどう向き合うべきなのでしょうか。
「生きる脳」が拓く未来と、私たちの向き合い方
「生きているコンピューター」は、AIの消費電力問題や難病治療に光明をもたらす一方で、生命を「部品」として利用することへの倫理的な問いを私たちに突きつけます。
開発者の一人は、「まるでSFの本を自ら書いているようだ」と語ります。私たちは今、その物語の新たなページが開かれる瞬間に立ち会っているのかもしれません。生命と機械の境界線が溶け合う未来にどう向き合うのか、その答えを探す旅は、すでに始まっています。
