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生命をまるごとコピペ?「仮想細胞」が自力で分裂するまでの105分

私たちの体は約37兆個の細胞でできていますが、たった1個の細胞が「生きている」とはどういうことなのでしょうか。その根源的な問いに、コンピュータの力で迫る研究が発表されました。「仮想細胞が生命の最も基本的なプロセスを再現:細菌の分裂」と題されたこの研究では、ある細菌のほぼすべての化学反応をシミュレーションし、細胞がDNAをコピーして2つに分裂する一連のプロセスを、デジタル上で丸ごと再現することに成功しました。

「最小の生命」をデジタルで再構築する

研究の主役となったのは、JCVI-Syn3Aと呼ばれる合成細菌です。これはもともとマイコプラズマ・マイコイデスという寄生性の微生物をもとに、生存に不要な400以上の遺伝子を取り除いて作られた「最小ゲノム生物」で、わずか493個の遺伝子しか持ちません。遺伝子の数が少ない分、コンピュータでモデル化するには最適な対象です。

イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校の研究チームは、この細菌の内部を3次元で再現するシミュレーションを構築しました。DNA、タンパク質、リボソームなどの細胞内成分を配置し、それぞれが物理法則に従って動き、近くにある相手と化学反応を起こすようにプログラムしたのです。代謝には確率的な反応手法、DNAの動きにはブラウン動力学という物理シミュレーション手法を組み合わせ、空間と時間を同時に扱う「4次元モデル」を実現しました。

6日間のスパコン計算が映した「105分の生命」

研究チームの目標は、細胞がDNAを複製して2つに分裂するまでの「細胞周期」を丸ごと再現することでした。しかし初期の試みでは、ゲノムが複製されるよりも早く壊れてしまったり、細胞膜から飛び出してしまったりと失敗の連続だったといいます。

修正を重ねたのち、モデルをスーパーコンピュータで走らせたところ、ついに仮想細胞は自力でDNAを複製し、球形から細長い形に変化しながら2つに分裂しました。この仮想的な分裂にかかった時間は105分。実際のJCVI-Syn3Aが分裂に要する時間に「怖いくらい近い」と研究者は語っています。

ただし、この105分の生命を計算するのに、2基の高性能GPUを使って約6日間が必要でした。50個の仮想細胞を走らせた全体では、1万5000GPU時間以上の計算資源を消費しています。生命のシンプルさの裏に、途方もない複雑さが隠れていることを改めて示す結果です。

見えてきた細胞内部の「意外なリズム」

シミュレーションは単に分裂を再現しただけではありません。細胞内部の動きについて、いくつかの新しい知見も明らかにしました。

たとえば、RNAの転写は連続的に進むのではなく、原料となるヌクレオシド三リン酸が消費されるにつれてオン・オフを繰り返すパターンをとることがわかりました。リボソーム(タンパク質を作る装置)は時間の約55%しか活動しておらず、RNAポリメラーゼ(RNAを作る酵素)も約70%の時間しか転写に従事していません。細胞は常にフル稼働しているわけではなく、独特のリズムで動いているのです。

また、細胞が成長するにつれて膜タンパク質が局所的に集まる様子や、DNAが柔軟な高分子鎖のように丸まりながら複製・分離していく過程も可視化されました。こうした発見は、個々の分子経路を調べるだけでは見えてこない、「生きた細胞全体」のふるまいを捉えたからこそ得られたものです。

記者の視点:「生命のデジタルツイン」が拓く未来

今回の成果は、いわば「生命のデジタルツイン」の第一歩と言えます。工業分野では製品の仮想モデルを作って性能を予測するデジタルツインが普及していますが、それを生きた細胞に応用しようという発想です。

もちろん現時点では限界もあります。数十個の遺伝子の機能はまだ不明で、モデルでは「動かない球」として扱われています。1つのmRNAから同時に複数のリボソームがタンパク質を作る現象も再現できていません。そして何より、わずか493個の遺伝子しか持たない最小細菌ですら、スパコンで6日かかるのですから、ヒトの細胞(約2万個の遺伝子)の完全シミュレーションは、まだはるか先の目標です。

しかし、遺伝子を1つ変えたら細胞全体にどんな影響が出るかを予測できるようになれば、新薬の開発や合成生物の設計に革命が起きる可能性があります。日本でも理化学研究所が早くから細胞シミュレーション技術の研究を進めており、この分野には継続的な関心が集まっています。

コンピュータの中で「生きる」時代へ

たった493個の遺伝子で生きる最小の細菌。その105分間の一生を、研究者たちはデジタルの世界に忠実に再現してみせました。生命の本質に迫るこの「仮想細胞」は、私たちが「生きている」とは何かを理解するための、まったく新しい顕微鏡なのかもしれません。計算能力の進歩とともに、この顕微鏡がどこまで生命の謎を映し出してくれるのか、今後の展開が楽しみです。