AIの急速な普及に伴い、世界中でデータセンターの電力消費が深刻な問題になっています。冷却だけで莫大なエネルギーを必要とする従来型のデータセンターに対し、まったく異なるアプローチで挑むスタートアップが注目を集めています。「人間の脳細胞で新たなデータセンターを構築する」という、SFのような計画が現実に動き出しました。
「電卓以下」の消費電力で動くバイオコンピュータ
オーストラリア・メルボルンに拠点を置くCortical Labsは、生物学的コンピュータ「CL1」を開発したバイオテックスタートアップです。CL1の中には約20万個のヒト脳細胞(ニューロン)が収められており、シリコンチップの上で培養された細胞が電気信号を送受信することで情報を処理します。
この技術は「ウェットウェア」 と呼ばれ、ハードウェアやソフトウェアに対する「生体版コンピューティング」として位置づけられています。ニューロンは献血由来の細胞をもとに、幹細胞を経て培養され、CL1内部の生命維持装置によって最大6ヶ月間生存できます。
同社のCEOによると、CL1の1ノードあたりの消費電力は「携帯用の電卓以下」。現在のAI処理に使われるGPUと比較して、桁違いに少ないエネルギーで動作するとされています。
メルボルンとシンガポールに「生物学的データセンター」を建設
Cortical Labsはデータセンター事業者のDayOne Data Centersと提携し、本格的な「生物学的データセンター(Bio Data Centre)」の展開に乗り出しました。すでにメルボルンにはCL1を120台収容するプロトタイプ施設が開設されています。
さらに大規模な計画として、シンガポールでは最大1,000台のCL1を配備する施設計画が2026年9月頃に具体化する見込みです。クラウドサービス「WaaS(Wetware-as-a-Service)」として、世界中の研究機関や企業がリモートからバイオコンピュータにアクセスできる仕組みも整備されつつあります。
CL1本体の価格は約3万5,000ドル(約560万円)。クラウド利用なら週300ドル(約4万8,000円)から利用可能です。
ニューロンが「Doom」をプレイする衝撃
Cortical Labsの技術力を世界に知らしめたのが、CL1のニューロンに1993年発売の伝説的FPSゲーム「Doom」をプレイさせた実験です。以前にはレトロゲーム「Pong」のプレイ実験にも成功しており、生物学的なニューロンネットワークが学習し、複雑なタスクをこなせることを実証しました。
ただし、現時点では重要な課題も残っています。生物学的コンピュータが従来のデータセンター用チップと同等の計算性能を発揮できるかは、まだ証明されていません。ニューロンの寿命が最大6ヶ月という制約もあり、継続的な交換やメンテナンスの仕組みも必要です。
記者の視点:エネルギー危機へのユニークな回答
AIブームによるデータセンターの電力消費は、各国で社会問題化しています。騒音、水の大量消費、周辺地域の電気料金上昇など、環境への負荷は無視できないレベルに達しています。そうした中で「生きた脳細胞を使う」というアプローチは、エネルギー問題に対する、これまでとは根本的に異なる答えです。
もちろん、倫理的な議論も避けて通れません。ヒトの細胞を商業的なコンピューティングに利用することへの社会的合意は、技術の進歩と並行して進める必要があるでしょう。日本でもiPS細胞の研究が世界をリードしており、生体材料と技術の融合は今後さらに注目を集める分野です。
脳細胞コンピュータが変える「計算の常識」
Cortical Labsの挑戦はまだ始まったばかりです。計算性能の実証、ニューロンの長寿命化、スケーラビリティの確保など、乗り越えるべきハードルは少なくありません。しかし、「電卓以下のエネルギーで動く」という特性が本物であれば、AI時代のインフラのあり方を根底から変える可能性を秘めています。シンガポールの大規模施設計画が具体化する今後数か月が、この技術の真価を問う最初の試金石になりそうです。
