スマートフォンの半導体から航空機のエンジン部品まで、新しい材料を開発するには原子レベルの振る舞いを正確に計算する必要があります。しかし統計力学の根幹にある「配置積分」と呼ばれる計算は、最先端のスーパーコンピュータでも数週間かかり、100年以上にわたって物理学者を悩ませてきました。「THOR AIが100年来の物理学の問題を数秒で解く」というScienceDailyの記事が伝えるように、米国の研究チームがこの壁をAIで一気に突破しました。
100年間「解けなかった」計算とは
物質の性質を根本から理解するには、原子一つひとつがどう配置され、どう相互作用するかを計算する必要があります。このとき鍵になるのが、粒子のあらゆる配置を考慮して物性を求める「配置積分」です。例えば金属の結晶構造や、高圧下でのガスの振る舞いを予測するための基礎計算ですが、原子の数が増えるほど計算量が爆発的に膨らむ「次元の呪い」と呼ばれる問題に直面します。
従来はモンテカルロ・シミュレーションなどの近似手法で対処してきましたが、これはあくまで「近似解」であり、しかも計算には数週間から数ヶ月かかることもありました。物理学者たちは約100年にわたり、この計算をより厳密かつ効率的に扱う方法がないかと模索してきたのです。
「北欧神話の神」が切り拓いた解法
この難題に挑んだのが、ニューメキシコ大学とロスアラモス国立研究所の共同チームです。彼らが開発したAIフレームワークTHOR(Tensors for High-dimensional Object Representation)は、テンソルネットワークと機械学習を組み合わせた新しいアプローチです。
THORの核心技術は「テンソルトレイン交差補間法」にあります。高次元のデータを、低次元のテンソル(多次元配列)の連なりに分解することで、扱いやすいサイズに圧縮するのです。さらに、結晶の対称性を自動的に検出する機能も搭載し、計算の無駄を大幅に削減しています。
銅や高圧下のアルゴン、さらにスズの固体間相転移に適用した結果、ロスアラモスの最高水準のシミュレーションと同等の精度を維持しながら、計算速度は400倍以上に向上しました。元記事によれば、従来の手法で長時間を要していた計算が数秒で完了するケースもあるとのことです。
記者の視点:「近似」から「直接解」への歴史的転換
THORの意義は単なる高速化にとどまりません。100年以上にわたり近似手法に頼ってきた統計力学の計算を、第一原理計算(経験的パラメータに頼らず物理法則から直接解く手法)に近づけたという点で、大きな転換点と言えます。
近似手法には常に「どこまで信頼できるか」という問題がつきまとっていました。THORは従来法よりも厳密性の高い形で計算できるため、結果の信頼性向上が期待されます。これは材料科学だけでなく、新薬開発や次世代バッテリーの設計など、原子レベルの精密な計算が求められるあらゆる分野に波及する可能性があります。
AIが変える「ものづくり」の未来
研究チームはTHORのソースコードをGitHubで公開しており、世界中の研究者が利用できます。計算に必要な資源と時間を大幅に抑えられれば、材料開発のスピードは劇的に加速するはずです。AIが物理学の「解けない問題」を解く時代が、いよいよ本格的に始まりました。
