病気になったら病院に行き、薬をもらう。私たちにとって当たり前のことですが、その薬がどこで、誰のために作られているか考えたことはあるでしょうか。世界の新薬開発は北米、ヨーロッパ、アジアに集中しており、アフリカで深刻な被害をもたらしてきたマラリアや結核の治療薬も、主に遠く離れた先進国の研究室で生み出されてきました。「新薬開発に挑む研究所は、意外な場所にある」とNPRが報じたのは、この常識を覆そうとする南アフリカの研究所の物語です。アフリカの病気をアフリカの手で治す――その壮大な挑戦の最前線を紹介します。
「おとぎ話の冒険」に人生を懸けた化学者
この物語の主人公は、ザンビア出身の有機化学者ケリー・チバレ教授(61歳)です。チバレ教授は新薬開発を「おとぎ話の冒険のようなもの」と表現します。「多くのカエルにキスをしなければ、王子様には出会えない。でも奇跡は起こります」。ここで言う「王子様」とは、マラリアや結核を治す新薬のことです。
チバレ教授はイギリスとアメリカで研究を重ね、先進国の製薬パイプラインの強大さを目の当たりにしました。「何千人もの科学者が研究開発に携わり、自国の人々の健康課題に取り組んでいた」。一方、世界のマラリア死亡者の大部分を占めるアフリカには、同等の研究基盤がなかったのです。
カリフォルニアの製薬企業でのキャリアも視野にあった1996年、チバレ教授はケープタウン大学の教員公募を目にします。「頭ではなく、魂が呼んでいた。アフリカからも世界水準の研究ができると示したかった」。アメリカの恩師は「アフリカ?アフリカに戻るのか?」と驚きましたが、迷いはありませんでした。
アフリカ初の統合型新薬開発センター「H3D」
2010年、チバレ教授はケープタウン大学にH3Dセンター(包括的新薬探索・開発センター)を設立しました。アフリカ大陸で初めての統合型新薬探索・開発拠点です。現在、75人以上の研究者が在籍し、化学棟の7階にある広大な実験室には、フュームフード、フラスコ、精密分注ロボットが並びます。
研究チームは数万種類の分子をスクリーニングし、病原体を殺す一方で人間の細胞は傷つけない化合物を探し出します。有望な候補が見つかれば、さらに効果を高めるための改良を重ねます。この手法で見出されたマラリア新薬候補は、南アフリカとエチオピアで臨床試験にまで進みました。アフリカ主導の国際的な取り組みとして、新薬候補を研究室段階から臨床試験まで進めたのは、あらゆる疾患を通じて史上初のことでした。
ただし、動物実験で安全性に関する懸念が見つかり、開発は慎重に中断されています。標的とした寄生虫の酵素がヒトにも存在することが判明したためです。チバレ教授はこの結果を挫折ではなく、新たな知見として次の研究に活かしています。
アフリカの遺伝的多様性が突きつける難題
新薬開発において見落とされがちな課題があります。薬の適切な投与量は、体がどのように薬を吸収・分解・排出するかに左右されますが、アフリカは世界で最も遺伝的多様性が高い大陸です。
H3Dセンターのケニア人研究者は「アフリカを欧米の集団のように比較的均質な集団として扱うことはできない。薬の代謝が大きく異なる多数の部分集団が存在する」と説明します。薬の代謝特性を詳しく調べるには、対象集団由来の肝臓サンプルが必要になることがありますが、アフリカの多くの地域では臓器提供に文化的・歴史的な抵抗感があります。「身体の完全性に対する文化的価値観があり、科学的プロセスへの不信感もある」とのことです。
研究チームはこの壁を、入手可能なサンプルとコンピューターモデルの組み合わせで乗り越えようとしています。アフリカの多様な集団の薬物代謝をシミュレーションし、最適な投与量を予測する手法です。
記者の視点:日本にも響く「誰のための新薬か」という問い
カリフォルニア大学サンフランシスコ校のマラリア研究者は、H3Dセンターを「発展途上国の疾患に対する包括的な新薬開発において、世界をリードするセンター」と評価しています。バングラデシュの研究者はこのモデルがアジアやラテンアメリカにも展開されるべきだと提言しています。
この話は遠いアフリカだけの問題ではありません。日本でも、市場規模の小さい難病や希少疾患の治療薬は、採算性の観点から開発が後回しにされがちです。チバレ教授の挑戦は、新薬開発が市場原理だけでなく「誰のための薬か」という視点で動くべきだという、普遍的なメッセージを投げかけています。
マラリアに命を救われた少年の「恩返し」
チバレ教授の原動力は、子ども時代の体験にあります。ザンビアで育った幼い彼は重いマラリアにかかり、病院に運ばれました。同じ病気で命を落とす子どもたちがいるなかで、彼は薬のおかげで回復できたのです。
「ずっと後になって2つのことに気づいた。一つは、世界のどこかの誰かが、あの薬の発見と開発に投資してくれたこと。もう一つは、見知らぬ誰かが、私のために臨床試験に参加してくれたこと」。かつて薬に救われた少年は今、自らの手でアフリカの人々を救う薬を作ろうとしています。研究室の成果を患者へ届け、そこで得られた知見を次の研究に生かす。その循環こそが、H3Dセンターの目指す創薬の姿です。
