「頭の中で考えるだけで音楽を奏でられたら」と想像したことはないでしょうか。それを現実にした人物がいます。「脳インプラントで音楽を作る男に会う」とWIRED誌が報じたところによると、米国の心理学研究者が脳に埋め込んだチップを使い、思考だけで音楽のトーンを生み出すことに成功しました。この取り組みは、脳コンピュータインターフェース(BCI)の可能性を「機能の回復」から「創造的表現」へと大きく広げるものです。
16歳で四肢麻痺、69歳で「脳の楽器」を手にするまで
この挑戦の主人公は、心理学研究者のゲイレン・バックウォルターさん(69歳)です。16歳のとき、飛び込み事故で四肢麻痺となりました。それでも科学への情熱を失わず、2024年にカリフォルニア工科大学(Caltech)の研究に参加。ブラックロック・ニューロテック社製のユタアレイと呼ばれる微小電極チップ6個を脳に埋め込む開頭手術を受けました。
6つのチップにはそれぞれ64本の電極があり、合計384チャンネルで脳の神経活動を記録します。この技術により、バックウォルターさんは思考でコンピュータを操作したり、失われていた指の感覚を取り戻したりすることが可能になりました。
しかし、バックウォルターさんの目標はそこにとどまりませんでした。かねてからYouTubeでキノコに電極をつけて音を出す動画に触発されていた彼は、「キノコにできるなら、自分の脳の音も聴いてみたい」と考えていたのです。
思考が音になる仕組み
Caltechの大学院生が開発したアルゴリズムが、この夢を実現しました。仕組みはこうです。脳内の各ニューロンには基準となる発火率があります。バックウォルターさんが「足の指を動かす」と考えると、特定のニューロンが活性化し、その変化がトーン(音の高低)として出力されます。ニューロンを活性化させれば音が上がり、抑制すれば下がるという仕組みです。
さらに、「人差し指を動かす」と考えれば別のニューロン群が反応し、異なるトーンが生まれます。現在は2つのトーンを同時に操作でき、それ以上になると「頭をなでながらお腹をさする」ような難しさになるといいます。
仮想キーボードのような仕組みも開発されました。ニューロンの発火が一定の閾値を超えると音が鳴り、下がると止まる。まるで楽器を演奏しているような感覚だとバックウォルターさんは語っています。
日によって変わる「脳の楽器」
興味深いのは、日によって反応するニューロンが変わることです。昨日使えたチャンネルが今日は反応しないこともあり、毎回その日に使えるニューロンを探すところから始めなければなりません。それでも「個々のニューロンを意思で制御できること自体がすごい」とバックウォルターさんは語ります。
パンクロックバンドが「脳の音」を楽曲に
バックウォルターさんは29年間続くロサンゼルスのパンクロックバンド「Siggy」のメンバーでもあります。実験室で生み出した脳のトーンを楽曲に取り入れ、2026年3月15日にアルバム「Wirehead」をリリースしました。タイトル曲「Wirehead」には、実際に脳インプラントで生成した音が使われています。
今後はリズムループを作り、その上にメロディを重ねる「DJブース」のような演奏を目指しているといいます。「頭の中にオーケストラがあって、それを演奏する方法を学んでいるところだ」と、バックウォルターさんは意気込みを見せています。
記者の視点:BCIに「楽しさ」を求める意味
バックウォルターさんの取り組みで最も示唆に富むのは、BCI研究に対する彼の問題提起です。現在のBCI研究は主に麻痺患者の運動機能や会話能力の回復に焦点を当てています。しかしバックウォルターさんは「人間は動いたり感じたりするだけの存在ではない。創造性を拡張する方向にも研究を進めるべきだ」と主張します。
「この技術が本当に成功するためには、使う人がそれを好きにならなければならない」という彼の言葉は重要です。BCI市場は2024年に約25億ドル(約4,000億円)規模で、2030年までに約80億ドル(約1兆2,700億円)に成長すると予測されています。日本でも厚生労働省がBCI利用機器の評価指標策定に取り組んでおり、実用化に向けた動きが進んでいます。
技術が高度化するにつれ、「何ができるか」だけでなく「使いたいと思えるか」が普及の鍵になるでしょう。音楽という普遍的な喜びを通じてBCIの可能性を示したバックウォルターさんの挑戦は、技術開発の方向性に一石を投じています。
「脳の中のオーケストラ」が奏でる未来
BCIは今、ニューラリンクをはじめとする複数企業の参入で急速に発展しています。しかし、その多くは「失われた機能を取り戻す」という医療的なアプローチに集中しています。バックウォルターさんが切り拓いているのは、「人間の能力を新たに拡張する」という、もう一つのフロンティアです。
「止まるつもりはない。最終的にはラスベガスの球体型ライブ施設「スフィア」でやるまでだ」と語るバックウォルターさん。69歳にして脳の新しい可能性を探り続ける彼の姿は、テクノロジーが人間の創造性をどこまで広げられるかを問いかけています。
