「サトシ・ナカモト」という日本人風の名前で知られるビットコインの生みの親。その正体は2009年の誕生以来、暗号資産業界最大の謎とされてきました。このたびニューヨーク・タイムズ(NYT)が18カ月に及ぶ調査報道の末、「ビットコイン創設者の有力候補を特定した」と報じ、暗号資産コミュニティで大きな議論を呼んでいます。名指しされたのは、イギリスの暗号学者でBlockstreamのCEOを務めるアダム・バック氏。しかし本人はこれを全面的に否定しています。
セラノス詐欺を暴いた記者が挑んだ「暗号資産最大の謎」
今回の調査を手がけたのは、記者のジョン・カレイルー氏です。カレイルー氏は、血液検査スタートアップ「セラノス」の巨額詐欺を暴いたことで知られるピュリッツァー賞受賞ジャーナリストで、現在はニューヨーク・タイムズに所属しています。
カレイルー氏がこの調査に乗り出したきっかけは、2024年10月にHBOが放映したドキュメンタリー番組でした。この番組ではカナダ人開発者のピーター・トッド氏がサトシ・ナカモトだと主張しましたが、カレイルー氏はその結論に納得できませんでした。そこから18カ月にわたる独自調査が始まったのです。
調査の重要な手がかりとなったのが、サトシ・ナカモトがフィンランド人プログラマーのマルッティ・マルミ氏に送ったメールです。これらのメールは、ビットコイン創設者を自称したオーストラリア人男性をめぐる民事裁判の過程で公開されたものでした。
「文章のクセ」が一致した
カレイルー氏の調査では、アダム・バック氏とサトシ・ナカモトの間に複数の共通点が見つかりました。
まず思想的なつながりです。両者はともに「サイファーパンク」と呼ばれるムーブメントに関わっていました。サイファーパンクとは、暗号技術によって政府の監視や検閲に対抗し、プライバシー保護や追跡困難な電子決済の実現を目指した運動です。
次に技術的な類似性。バック氏は1997年に、電子メールのスパム対策を目的としたプルーフ・オブ・ワーク技術「Hashcash」を考案しており、これはビットコインの中核技術の先行例とされています。実際、サトシ・ナカモトのビットコイン論文でもHashcashが引用されています。
そして最も注目されたのが文体分析です。言語学者がサトシ・ナカモトの文章を統計的に分析したところ、12人の候補者の中でバック氏が最も近い結果を示しました。具体的には、ピリオドの後にスペースを2つ入れる癖、イギリス英語とアメリカ英語を混在させる傾向、「double-spending」をハイフンでつなぐ表記など、細かな文章の特徴が一致していたのです。ただし、この結果は「決定的」とまでは言えないレベルでした。
バック氏は全面否定、コミュニティにも波紋
名指しされたアダム・バック氏は、即座にこの報道を否定しました。「私はサトシではない。しかし暗号技術やオンラインプライバシー、電子マネーの社会的意義については、1992年ごろから関心を持っていた」と述べ、自身の研究歴とサトシの発想が重なるのは、同じサイファーパンクのコミュニティで活動していた以上、自然なことだと説明しています。
さらにバック氏は「サトシが誰なのか、私も知らない」と強調し、ビットコインが特定の人物に依存しない資産として受け止められるうえで、創設者の匿名性はむしろプラスだと主張しました。
暗号資産コミュニティの反応も分かれています。初期のビットコイン関係者の中には、証拠の説得力に疑問を呈する声もあります。また、仮にサトシの正体が明らかになった場合、その人物が保有するとされる約110万BTC(現在の市場価格で約12兆円相当)の扱いや、本人の安全面での懸念を指摘する声も上がっています。
記者の視点:「正体不明」がビットコインの強みだった
サトシ・ナカモトの正体を巡る議論は、これが初めてではありません。過去にもニューズウィーク誌がカリフォルニア在住のドリアン・ナカモト氏を名指ししたり、オーストラリアのクレイグ・ライト氏が自ら名乗り出たりと、繰り返し「正体判明か」という報道がなされてきました。しかし、いずれも決定的な証明には至っていません。
今回の調査は、セラノス詐欺を暴いた調査報道記者が18カ月を費やし、文体分析や技術的背景など多面的な材料を積み上げた点で、過去の推測報道とは異なります。しかし文体分析の結果ですら「決定的ではない」とされており、確実な証拠とは言いがたい状況です。
むしろ注目すべきは、バック氏自身が語った「創設者が匿名であることが資産の信頼性を高めている」という指摘かもしれません。特定の個人や組織に依存しない「分散型」の思想こそがビットコインの根幹であり、生みの親が名乗り出ないこと自体が、その設計思想の体現とも言えるのです。
「サトシ・ナカモト」の謎はまだ終わらない
ビットコインの時価総額は1兆ドル(約160兆円)を大きく超える規模に達し、もはや一部の技術愛好家だけのものではなくなりました。それだけに、創設者の正体への関心も高まり続けています。カレイルー氏の調査は過去の推測報道に比べて多面的な材料を積み上げた試みですが、最終的な答えはまだ出ていません。
サトシ・ナカモトが誰であれ、ビットコインが世界の金融システムに与えた影響は変わりません。しかし「日本人風の名前を持つ謎の天才」という物語が、いつか完全に解き明かされる日が来るのか。暗号資産業界最大のミステリーは、まだ幕を閉じていないのです。
