新薬の開発や食品の改良には、気の遠くなるような回数の実験が必要です。従来は研究者がひとつひとつ条件を変えながら試してきたその工程を、AIがほぼ自動でこなす時代が到来しました。「AIが人間の手なしに数千の実験を設計・実行できるようになった。だが人類はこの生物学への新たなリスクに備えができていない」とThe Conversationが報じたこの問題は、科学の飛躍的な進歩と、それがもたらす安全保障上の危険という両面を私たちに突きつけています。
GPT-5が3万6000回の実験を自律的に実行
2026年2月、OpenAIと米国の合成生物学企業ギンコ・バイオワークスは、AIモデル「GPT-5」を組み込んだ自律実験システムが、ロボット実験室を通じて3万6000件以上の生物学実験を設計・実行したと発表しました。実験の対象は「無細胞タンパク質合成」と呼ばれる技術で、生きた細胞を使わずに試験管の中でタンパク質を作り出すものです。
仕組みはこうです。GPT-5がまず実験の条件を設計し、そのデータをクラウド上のロボット実験室に送信します。ロボットが自動で実験を実行し、結果をGPT-5に返します。AIはその結果を分析して新たな仮説を立て、次の実験を設計する。この「設計→実験→分析→再設計」のループを6回繰り返した結果、ベンチマーク用タンパク質の合成コストは1グラムあたり698ドル(約11万1,000円)から422ドル(約6万7,000円)へと40%削減されました。タンパク質の生産量も27%増加しています。
注目すべきは、AIが人間の研究者がこの構成では試していなかった低コストの反応組成を発見し、既存研究の知見も踏まえながら有効な組み合わせを探索した点です。つまりAIは単に人間の作業を代行するだけでなく、広大な実験空間から有望な条件を見つけ出す能力を示し始めています。
「プログラム可能な生物学」の第3フェーズ
この動きは、生物学研究の歴史的な転換点とも言えます。大まかに言えば、第1フェーズは自然界の観察と理解の時代。第2フェーズは、CRISPRに代表されるゲノム編集技術によって生物を意図的に改変できるようになった時代です。そして今、第3フェーズとして、AIが生物の部品を計算的に設計し、自動化された実験室で高速に検証する「プログラム可能な生物学」の時代が幕を開けています。
タンパク質言語モデルと呼ばれるAIは、数百万もの天然タンパク質の配列データから学習し、変異がタンパク質の機能にどう影響するかを予測できます。さらには自然界に存在しないまったく新しいタンパク質を設計することも可能です。自動化されたロボット実験室と組み合わせることで、従来なら数カ月から数年かかっていた検証を、数日単位に短縮できる可能性があります。
同じ技術が生物兵器に転用されるリスク
しかし、この革新にはダークサイドがあります。タンパク質を設計し、遺伝子を改変できるAIの能力は、正当な研究に使われるだけでなく、生物兵器の開発を加速させる危険性も持っています。
研究によると、大規模言語モデルには安全フィルターが設けられているにもかかわらず、危険な病原体に関する情報を提供してしまうケースがあります。ある調査では、専門知識を持たない初心者の約90%が「危険な病原体の取り扱いに関する詳細な情報をAIから引き出すのに、ほとんど困難はなかった」と報告しています。AIがウイルスの拡散を最適化する方法を示したり、生物兵器の開発に必要な専門的なハードルを下げたりする可能性が指摘されています。
DNA合成の注文時に危険な配列でないかチェックする「DNA合成スクリーニング」も、現時点ではほとんどが企業の自主的な取り組みにとどまっており、法的義務ではありません。
規制の空白が生む危うさ
技術の進歩に対して、規制の整備は大きく遅れています。
- バイデン政権が2023年に導入したAI関連のバイオセキュリティ規定は、トランプ政権によって撤回されました
- 1975年に発効した生物兵器禁止条約(BWC)には、AIに関する規定が一切含まれていません
- AIモデルの安全性評価は企業に委ねられ、その手法は不透明なままです
- 実際の生物兵器開発リスクを適切に測定できる評価基準も確立されていません
一方で、2025年12月にはバイオセキュア法が成立し、安全保障上の懸念がある企業からの政府調達を制限する枠組みが整い始めました。2026年には超党派でバイオセキュリティ近代化・イノベーション法案も提出され、米国の生物学的リスクに対する監視体制の構築が進められています。
専門家たちは、DNA合成スクリーニングの義務化、AIモデルの安全性評価の透明化、リスクレベルに応じたアクセス管理、そして生物学データそのものに対するガバナンスの構築を提言しています。
記者の視点:日本も無関係ではいられない
AIによる自律的な生物実験は、新薬開発のスピードアップや食糧問題の解決など、計り知れない恩恵をもたらす可能性を秘めています。しかし同時に、これまで高度な専門知識と大規模な設備がなければ不可能だった危険な実験が、AIとロボット実験室の組み合わせで格段に身近になりつつあるという現実も見逃せません。
日本にとってもこの問題は他人事ではありません。ギンコ・バイオワークスは双日と提携して日本市場でのサービス展開を進めており、合成生物学の波は確実に日本にも押し寄せています。技術の恩恵を最大限に受けつつ、悪用を防ぐための国際的なルール作りに日本も積極的に関与していく必要があるでしょう。
科学の加速と安全のバランスをどう取るか
AIが科学の進歩を爆発的に加速させる時代に、私たちは技術の恩恵だけを享受するわけにはいきません。3万6000回の実験を自動で回すAIの能力は、使い方次第で人類の大きな味方にも脅威にもなります。規制のない技術は暴走するリスクがある一方、過度な規制はイノベーションを止めてしまいます。この繊細なバランスをどう取るかが、これからの国際社会に問われている最大の課題です。
