「考えるだけでスマホを操作できる」と聞くと、まだSF映画の話に思えるかもしれません。しかし、脳とコンピューターを直接つなぐ技術は、すでに患者の体内で使われ始めています。そんな中、「元ニューラリンク共同創業者の企業が、初めて人間の脳にセンサーを埋め込む準備を進めている」とTechCrunchが報じました。従来の金属電極ではなく、培養したニューロン(神経細胞)を使うという異色のアプローチが注目を集めています。
「生きた細胞」で脳とつながる新発想
この技術を開発しているのは、2021年設立のサイエンス・コーポレーションです。創業者のマックス・ホダック氏は、イーロン・マスク氏とともにニューラリンクを立ち上げた人物として知られています。
同社が手がけるバイオハイブリッド型BCIは、既存の脳インプラントとは根本的に異なります。ニューラリンクなどの従来型デバイスは金属の電極を脳組織に直接挿入しますが、サイエンス・コーポレーションのセンサーは頭蓋骨の内側に設置しつつも、脳の表面に載せる方式です。
最終的なデバイスには、体外で培養した光感受性のニューロンが組み込まれます。このニューロンが患者の脳にもともとあるニューロンと自然に結合し、シナプスを形成することで、生体と電子機器をつなぐ「橋」の役割を果たします。イェール大学医学部神経外科学教室主任で同社の科学顧問を務めるムラト・ギュネル博士は、「ニューロンを介して脳と電子機器の間に生物学的なインターフェースを作るというアイデアは非常に独創的だ」とTechCrunchに語っています。
まず「センサー単体」でヒト脳に挑む
同社は現在、米国での初のヒト臨床試験に向けた準備を進めています。最初のステップでは、培養ニューロンを搭載しない状態のセンサーを頭蓋内の脳表面に設置し、安全性と脳活動の計測性能を評価します。
このセンサーはえんどう豆ほどの大きさの領域に520個の記録電極を備えた極小デバイスです。脳組織に直接挿入しない設計のため、同社はFDA(米国食品医薬品局)の事前承認を必要とする重大リスク機器には当たらないという立場です。
対象となる患者は、すでに大規模な脳外科手術が必要な人々です。たとえば脳卒中後の脳浮腫に対応するため、頭蓋骨の一部を除去する手術を受ける患者に対して、その際にセンサーを脳表面に設置する計画です。ギュネル博士は臨床試験の開始について「2027年中の開始は楽観的な見通しだ」と述べており、まだ医療倫理委員会との協議段階にあります。
パーキンソン病の進行を止める可能性
デバイスが成功すれば、複数の神経疾患への応用が期待されています。初期の用途としては、損傷した脳細胞や脊髄細胞に微弱な電気刺激を与えて回復を促すことが考えられています。より高度な応用としては、脳腫瘍のある患者の神経活動をモニターし、発作の予兆を医療者や介護者に知らせることも想定されています。
ギュネル博士が特に期待を寄せるのがパーキンソン病への応用です。現在使われている脳深部刺激療法(DBS)は、震えを抑えることはできても、病気の進行を根本的に止める治療ではありません。バイオハイブリッドシステムなら、電子機器と移植細胞の両方を組み合わせ、失われた神経回路を保護できる可能性があるといいます。「パーキンソン病では、私たち神経外科医ができるのは震えを止める電極を入れることだけです。しかし細胞を脳に戻して回路を守ることができれば、病気の進行を止められる可能性がある」とギュネル博士は語りました。
記者の視点:電極からニューロンへ、BCIの「第二幕」
脳コンピューターインターフェースの分野では、ニューラリンクが2024年に初のヒト臨床試験を実施し、大きな注目を集めました。しかし脳組織に刺入する金属電極には、組織への負担や、時間とともに性能が低下するリスクがあります。サイエンス・コーポレーションのアプローチは、この問題を生物学的に解決しようとする点で画期的です。
同社は2026年3月にシリーズCで2億3000万ドル(約365億円)を調達し、企業価値は15億ドル(約2400億円)に達しました。すでに黄斑変性症の視力回復デバイス「PRIMA」の臨床試験も進めており、欧州での認可取得を目指しています。日本でも慶應義塾大学がBCIを活用した運動能力向上の研究を発表するなど、この分野への関心は世界的に高まっています。
「脳に刺さらない脳インプラント」が切り開く未来
培養ニューロンを使うという大胆な発想には、まだ多くのハードルが残っています。将来的に培養ニューロンを搭載した場合、ヒトの脳内で安全に機能するか、長期的な安定性はどうか、臨床試験での検証はこれからです。それでも、金属電極の限界を超えようとするこのアプローチが実を結べば、パーキンソン病や筋萎縮性側索硬化症(ALS)などの神経疾患に苦しむ患者にとって、根本的な治療への大きな一歩となるかもしれません。「脳に刺さらない脳インプラント」という逆説的な技術が、私たちの脳と機械の関係をどう変えていくのか。その答えが出るのは、もう遠い未来の話ではなさそうです。
