金属に電気を流すと熱も一緒に伝わる。これは1853年から知られている物理学の基本法則で、私たちの身のまわりにある電子機器の設計にも深く関わっています。ところが、炭素原子1層分の厚さしかない「グラフェン」という素材で、この常識が通用しない現象が確認されました。学術誌 Nature Physics に掲載された研究成果を、ScienceDaily が「グラフェンが物理学の基本法則に反した」と紹介しています。この記事では、170年以上続いた法則がなぜ破れたのか、その仕組みと将来への影響を解説します。
170年の常識を覆した実験結果
問題となったのは「ヴィーデマン・フランツ則」と呼ばれる法則です。金属では電気をよく通す素材ほど熱もよく伝えるという関係で、銅やアルミニウムのような金属が熱をよく伝える背景にも、こうした電子による伝導の性質があります。
インド・バンガロールのインド科学大学院大学(IISc)の研究チームは、日本の物質・材料研究機構(NIMS)と共同で、極めて純度の高いグラフェン試料を作製しました。そしてその電気伝導率と熱伝導率を同時に測定したところ、驚くべき結果が出ました。ディラック点と呼ばれる特殊な条件の低温環境で、電気伝導率が上がると熱伝導率が下がり、逆に熱伝導率が上がると電気伝導率が下がるという、ヴィーデマン・フランツ則とは正反対の振る舞いが観測されたのです。電気伝導と熱伝導の関係を示す「ローレンツ数」は、従来の基準値の200倍以上に達しました。
電子が「液体」になる不思議な状態
なぜこのような逆転現象が起きるのでしょうか。鍵を握るのがディラック流体と呼ばれる特殊な量子状態です。
グラフェンには「ディラック点」という特別な電子状態があります。ここでは物質が金属でも絶縁体でもない中間的な性質を示し、電子を個々の粒子として見るよりも、集団として一体的に流れる「流体」として扱う方が適した状態になります。まるで水のような振る舞いです。
研究チームがこの流体の粘性を測定したところ、非常に低い値を示しました。これは、CERNなどの粒子加速器で生成される、初期宇宙に存在したと考えられる「クォーク・グルーオン・プラズマ」に似た性質です。つまり、初期宇宙の物質と比較されるほどの「完全流体」に近い振る舞いを、卓上のグラフェン実験で調べられる可能性が開けたことになります。
普遍的な量子の法則
電気と熱が分離するという異常な振る舞いにもかかわらず、研究チームはもうひとつ重要な発見をしています。電気伝導と熱伝導を組み合わせて解析すると、ディラック流体の特徴的な伝導率が普遍的な量子値に近づくという点です。
これは「コンダクタンス量子」と呼ばれる値に結びついており、グラフェン固有の性質ではなく、量子力学そのものから導かれる基本的な法則の表れである可能性を示唆しています。個別の現象に見えたものの背後に、より深い物理法則が隠れているのかもしれません。
記者の視点:日本の材料技術が支えた発見
今回の研究で注目したいのは、日本のNIMSの研究者が共著者として参加し、極めて高品質な試料を用いた実験の実現に貢献している点です。ディラック流体の観測には不純物が極めて少ない試料が不可欠で、日本が得意とする精密な材料技術がこの発見を下支えしています。グラフェン研究は世界中で進んでいますが、「つくる技術」の面で日本の存在感は依然として大きいと言えるでしょう。
量子センサーへの道が開く
この発見は基礎物理学の成果にとどまりません。ディラック流体の特性を活用すれば、微弱な電気信号や磁場を検出できる高感度の量子センサーの開発につながる可能性があります。将来的には医療計測や地下構造の探査など応用先も考えられますが、現段階では基礎研究としての位置づけが中心です。実用化にはまだ研究の積み重ねが必要ですが、炭素原子1層の中に現れる量子流体は、次世代の計測技術につながる可能性を秘めています。
