牛乳を飲んでもお腹を壊さない人と、すぐにお腹がゴロゴロする人がいます。この違いの一部は、数千年前に広がった乳糖耐性に関わる遺伝的変化に由来しています。では、こうした自然選択は人類の歴史のなかでどれほど頻繁に起きてきたのでしょうか。Nature に掲載された論文の意義を「古代ゲノムの大規模研究が人類の進化の加速を示す」と報じた記事によれば、約1万6,000人分の古代DNAを分析した結果、西ユーラシアでは農耕の導入後に自然選択が顕著に加速していたことが明らかになりました。
21から479へ、知られざる選択の規模
ホモ・サピエンスがアフリカで誕生したのは約20万〜30万年前。その後、世界中に広がり、およそ1万年前に農耕を始めました。新しい食物や病原体、大人数での集団生活といった環境変化に、人間の体は適応してきたはずです。しかし、これまでのゲノム研究で方向性選択の痕跡として確認されていたのは、乳糖耐性のようなわずか21例にとどまっていました。
今回、ハーバード大学医学大学院の研究チームは、新たに取得した古代人約1万人分のゲノムに、既存の古代ゲノム約5,800人分を加えた計約1万6,000人分の古代DNAを、新しい計算手法で分析しました。すると、西ユーラシア(ヨーロッパと中東)の集団で方向性選択を受けた遺伝的バリアントが479個も見つかったのです。従来の約23倍という数字です。
農耕が引き金になった「進化の加速」
注目すべきは、選択が加速した時期です。分析の結果、農耕の導入後に自然選択の働きが顕著に強まったことが分かりました。動物との距離が縮まり、食生活が変わり、感染症のリスクが高まった農耕社会では、特定の遺伝的バリアントを持つ個体が生存・繁殖で有利になったと考えられます。
選択のシグナルが確認された479の遺伝的バリアントのうち、60%以上が現代人の特徴と関連していました。具体的には以下のようなものです。
- 免疫系: 現代のゲノム解析でHIV感染への抵抗性やハンセン病への抵抗性と関連づけられているバリアント
- 外見的特徴: 肌の色の明るさや赤毛に関連するバリアント
- 代謝: 体格指数(BMI)やウエスト・ヒップ比に影響するバリアント
- 疾患リスク: セリアック病やクローン病の感受性に関わるバリアント
「進化=優劣」ではない
ただし、この研究には重要な注意点があります。選択のシグナルが見つかったバリアントのなかには、現代のゲノム解析で「世帯収入」や「就学年数」といった指標との相関が報告されているものも含まれていました。しかし研究チームは、これを「特定の集団が他より賢い、健康である、優れている」といった意味に解釈することを明確に戒めています。
先史時代には「世帯収入」という概念自体が存在しません。ある遺伝的バリアントがたまたま現代社会の指標と相関していても、その変異が古代に選択された理由はまったく別のところにある可能性が高いのです。研究チームは、こうした関連の解釈には慎重さが必要だと強調しています。
記者の視点:東アジアでも「進化の加速」は起きていたのか
今回の研究は西ユーラシアの集団が対象ですが、同様の加速は農耕を発展させた東アジアでも起きていた可能性があります。日本列島でも、稲作の広がりや大陸からの人の移動に伴って、食生活や人口密度、感染症との接触機会は大きく変わったと考えられます。縄文人と弥生人のゲノム比較研究は近年急速に進んでおり、日本列島での自然選択の歴史もいずれ解明されるかもしれません。
古代DNAが開く「進化の時系列観測」
この研究の革新は、手法にもあります。筆頭著者のアクバリ氏は、移住や集団の混合、偶然による遺伝子頻度の変化と区別し、方向性選択のシグナルを検出する計算手法を開発しました。これにより、古代DNAを時系列でたどりながら、進化の過程をいわば「リアルタイムで観測する」ように分析できるようになったと表現しています。1万年という人類史のなかで、私たちの体は想像以上のスピードで変わり続けてきました。次はどの地域のゲノムが、どんな進化の物語を語ってくれるのでしょうか。
