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「無」から物質が生まれる瞬間を初観測、量子真空の秘密に迫る実験

目の前のテーブルも、自分の体も、すべての物質は原子でできています。その原子の中心にある陽子や中性子は、さらに小さなクォークという粒子で構成されています。ところが不思議なことに、クォークの質量を全部足しても陽子の重さの約1%にしかなりません。残りの99%はどこから来るのか。その答えの鍵を握る現象が、ついに実験で捉えられました。「科学者が初めて空っぽの空間から粒子が出現するのを観測」と報じられたこの研究は、「何もない」はずの真空から実際の物質が生まれる証拠を示したものです。

真空は「空っぽ」ではない

日常の感覚では、真空とは何もない空間です。しかし現代物理学が描く真空の姿はまるで違います。量子力学によれば、真空にはエネルギーの場が満ちており、そこでは粒子と反粒子のペアが絶え間なく現れては消えています。これらは仮想粒子と呼ばれ、通常はあまりに短い時間で消滅するため直接検出できません。

しかし、十分なエネルギーを注ぎ込めば、このはかない仮想粒子を「本物の」粒子に変えられるはずだと理論は予測していました。米国ブルックヘブン国立研究所の相対論的重イオン衝突型加速器(RHIC)を使った国際共同研究チームが、まさにその現象を実験的に確認したのです。研究成果は学術誌 Nature に掲載されました。

ラムダ粒子の「スピン」が真空の痕跡を保存していた

研究チームが注目したのは、ラムダ粒子とその反物質である反ラムダ粒子です。ラムダ粒子にはストレンジクォークが含まれており、このクォークは通常の物質には存在しません。つまり、衝突で生まれたラムダ粒子の中のストレンジクォークは、真空から生まれたものだと追跡できるのです。

さらにラムダ粒子には便利な性質があります。崩壊するときに飛び出す娘粒子の方向から、親であるラムダ粒子のスピン(回転の向き)を逆算できるのです。クォークそのものは単独で取り出せませんが、ラムダ粒子の崩壊を観察することで、内部のクォークがどんな向きで回転していたかを間接的に知ることができます。

実験の結果、近い位置で生成されたラムダ粒子と反ラムダ粒子のペアは、18%の相対偏極(スピンの向きの揃い具合)を示しました。統計的な確からしさは4.4シグマで、物理学で「発見」の基準とされる5シグマに迫る高い信頼度です。このスピンの揃いは、両者が真空中で1つの仮想クォーク対として生まれ、その量子的な相関を保ったまま実際の粒子になったことを強く示唆しています。

私たちの体の質量の99%は「真空のエネルギー」から

この発見がなぜ重要なのか。それは、目に見える物質の質量の起源に直結するからです。

素粒子に質量を与える仕組みとして有名なのはヒッグス場です。2012年にヒッグス粒子が発見され、大きなニュースになりました。しかしヒッグス場が説明できるのは、クォークや電子といった素粒子そのものの「素の質量」だけ。陽子や中性子の質量の大部分は、クォーク同士を結びつける強い力のエネルギーと、その周囲の真空の状態から生じています。

つまり、私たちの体を構成する物質の質量の約99%は、真空のエネルギーに由来しているのです。今回の実験は、その真空から粒子が生まれるプロセスを直接的に垣間見る手段を初めて提供しました。

約1,200トンの検出器が捉えた「無からの誕生」

実験に使われたのは、RHICに設置された重さ約1,200トンのSTAR検出器です。RHICは世界で唯一、偏極した(スピンの向きを揃えた)陽子同士を衝突させられる加速器で、スピンの研究に特に適しています。

研究チームは、衝突後の膨大な破片の中からラムダ粒子と反ラムダ粒子のペアを拾い出し、そのスピンの相関を分析しました。重要な検証として、同じデータ中のカオン粒子のペアや、コンピューターシミュレーションとの比較も行いましたが、同様のスピン相関は見られませんでした。グルーオンの分裂など、他の説明の可能性も検討されましたが、いずれもこの結果を再現できなかったのです。

ただし、ペアの距離が離れると相関は弱まりました。これはデコヒーレンスと呼ばれる現象で、周囲との相互作用によって量子的なつながりが壊れていくためです。真空が持つ量子的な秩序は繊細で、観測できる窓は限られています。

記者の視点:「無」の理解が物質の理解を変える

今回の研究は、日常の直感に反する事実を突きつけます。何もないはずの空間が、実は物質の質量のほとんどを生み出している。私たちの存在そのものが、真空のエネルギーの上に成り立っているのです。

日本は素粒子物理学の分野で長い歴史を持ちます。湯川秀樹の中間子理論から、スーパーカミオカンデによるニュートリノ質量の発見まで、「物質とは何か」という問いに挑み続けてきました。真空から物質が生まれるメカニズムの解明は、その延長線上にある究極の問いの一つです。

真空の「中身」を探る新時代の幕開け

研究チームは今後、異なる衝突エネルギーや条件での実験を計画しています。より高エネルギーの環境では真空の振る舞いが変わる可能性があり、物質の起源についてさらに深い理解が得られるかもしれません。

「空っぽに見える空間」の中に、物質の成り立ちを解く鍵が隠されている。この研究は、私たちが暮らす世界を形作る最も根源的な仕組みへの扉を、ほんの少し開いたところです。