日本では約5.5組に1組のカップルが不妊に悩んでいるとされ、体外受精(IVF)はもはや珍しい選択肢ではなくなっています。しかし、精子がまったく作られない男性にとっては、生物学的な子どもを持つ道が事実上閉ざされてきました。「あるスタートアップがヒトの精子を体外で作り、胚の作成に使ったと発表」と報じられたニュースによると、米ユタ州のバイオテック企業パテルナ・バイオサイエンシズが、精巣組織の幹細胞から培養皿の上で成熟した精子を作り出し、さらにその精子で胚を作成することに成功したと主張しています。
約100年続く挑戦、突破口となるか
体外で精子を作る技術「体外精子形成」は、研究者たちが約1世紀にわたって挑み続けてきたテーマです。2011年には京都大学のチームがマウスで世界初の成功を収めましたが、ヒトの精子を体外で作ることは格段に難しいとされてきました。
精子が体内でできるまでには約2か月かかり、いくつもの段階を経ます。精巣内の精子のもとになる細胞は、複数の段階を経て減数分裂を行い、染色体数を半分の23本にしたうえで、泳ぐための頭部と尾部の構造を獲得していきます。パテルナのCEOは「これらのステップすべてに厳密な制御メカニズムがある。我々は幹細胞に成熟した正常な精子になるための『指示書』を解読した」と述べています。
パテルナの手法では、精巣組織から精原幹細胞を取り出し、培養皿の中で精子へと成熟させます。チームは計算生物学を活用して、精子形成の各段階で重要になる分子シグナルを予測。さまざまな分子の組み合わせをテストし、適切な「カクテル」を見つけ出しました。
精子ゼロの男性にとっての「新しい選択肢」
不妊の原因のおよそ半分は男性側にあるとされます。そのうち約10〜15%の男性は、精液中に精子がまったく存在しない「無精子症」と診断されます。こうした患者には、精巣組織を手術で直接調べて精子を探す方法がありますが、全身麻酔が必要で最長4時間かかることもあり、それでも精子が見つからないケースが少なくありません。
パテルナの技術は、この手術の代わりに外来で精巣組織の小さな生検を行い、そこから体外で精子を作り出す仕組みです。費用は5,000〜1万2,000ドル(約80万〜190万円)を想定しています。米国では従来のIVFが1サイクルで1万5,000〜3万ドル(約240万〜480万円)かかることを考えると、精子採取に関わる負担やコストを大きく抑えられる可能性があります。
また、がん治療のために思春期前に化学療法を受ける男児への応用も期待されています。精原幹細胞は生まれた時から存在するため、治療前に組織を凍結保存しておけば、将来的に精子を作り出せる可能性があります。
まだ「査読前」という大きな留保
ただし、極めて重要な注意点があります。パテルナの成果はまだ査読付き学術誌に発表されておらず、独立した第三者による検証も行われていません。2015年にはフランスのカリステムという企業が同様の成果を主張しましたが、精子が完全に成熟していたかを疑問視する声があり、卵子の受精能力も証明されませんでした。
パテルナ自身も、この技術がすぐに妊娠に使えるわけではないと認めています。今回の胚作成は、培養精子が実際に機能するかを確認するための初期的なテストです。今後、不妊男性から採取した精子と培養精子の両方で卵子を受精させ、受精率や胚の遺伝的異常を比較するより大規模な研究を計画しています。臨床試験での妊娠は早ければ来年にも開始される可能性があるといいます。
記者の視点:生殖医療の「次の30年」が始まるか
約30年前に顕微授精(ICSI)が登場して以来、重度の男性不妊に対する治療の選択肢はほとんど変わっていませんでした。パテルナの技術が本物であれば、この分野で数十年ぶりの大きな進歩になる可能性があります。
日本は世界有数の生殖医療先進国であり、体外受精の実施件数は世界トップクラスです。男性不妊に対する新たなアプローチが実用化されれば、日本の不妊治療にも大きな影響を与えるでしょう。一方で、体外で作られた精子を生殖に用いることをめぐる倫理的な議論も避けて通れません。技術の進歩と社会的な合意形成を並行して進めていく必要があります。
「諦めるしかなかった」人への希望の灯
パテルナの主張が今後の検証で裏付けられれば、これまで生物学的な子どもを持つことを諦めるしかなかった多くの男性にとって、初めての現実的な選択肢になるかもしれません。ただし、科学的な厳密さが担保されるまでは、慎重に見守ることが大切です。この技術の成否は、生殖医療の将来を大きく左右するかもしれません。
