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がん細胞の「体温」を量子で測る、日本発ナノセンサーが細胞内の温度差を初検出

体温を測るとき、私たちは脇の下や口に体温計を当てます。では、たった1つの細胞の中の温度を測ることはできるでしょうか。「量子『体温計』が生きたがん細胞の温度を測定」とNatureが報じた研究で、日本の研究チームがこの難題に挑み、細胞の内部で場所によって最大1℃もの温度差があることを突き止めました。赤血球よりはるかに小さいセンサーが、がん研究の新たな可能性を切り開こうとしています。

「量子の目」で細胞の中をのぞく

この研究は量子科学技術研究開発機構(QST)、東京大学、九州大学の共同チームによるもので、学術誌 Science Advances に2026年4月29日付で掲載されました。

開発されたのは分子量子ナノセンサー(MoQNs)と呼ばれる超小型の温度計です。5つのベンゼン環がつながった有機分子「ペンタセン」を、パラテルフェニルという結晶に埋め込み、それを粉砕して200〜500ナノメートルの粒子にします。赤血球の直径が約7,000ナノメートルですから、その数十分の一というサイズです。粒子の表面は生体適合性のあるポリマーでコーティングされ、細胞の中に安全に入れる設計になっています。

このセンサーが「量子」と呼ばれるのは、ペンタセン分子内の電子が量子力学的な重ね合わせ状態をとることを利用しているからです。センサーに緑色のレーザーを当てると赤く光りますが、同時に特定の周波数のマイクロ波を当てるとその光がわずかに暗くなります。暗くなる周波数はセンサー周囲の温度に応じて変化するため、この周波数を読み取ることで温度を正確に割り出せるのです。

がん細胞の内部は「均一ではなかった」

研究チームはこのセンサーをがん細胞に取り込ませて温度を測定しました。センサーを含む溶液にがん細胞を浸し、自然に取り込ませる方法と、細胞核に直接注入する方法の2通りを用いています。

注目すべき結果は、細胞内部の温度が周囲の培養液より一貫して高かったことです。しかも温度上昇の度合いは場所によって異なり、細胞内では部位ごとに最大1℃の差が確認されました。さらに細胞核の中でも複数の地点で温度を測定したところ、核の内部にも局所的な温度のばらつきが存在することが明らかになりました。

1℃というと小さく感じるかもしれませんが、細胞レベルでは代謝反応の速度や酵素の働きに影響しうる大きな差です。がん細胞が正常細胞より活発に代謝を行っていることは知られていますが、その温度分布が細胞内で均一ではないという発見は、がんの仕組みを理解する新たな手がかりになります。

ナノダイヤモンドの弱点を克服した「分子の力」

細胞内の温度を量子技術で測る試みは、これが初めてではありません。従来はナノダイヤモンドに含まれる窒素空孔中心(NVセンター)と呼ばれる結晶欠陥が使われてきました。しかし、ナノダイヤモンドには粒子ごとに欠陥の状態が異なるという問題がありました。いわば個体差が大きく、センサーごとに読み取り値がずれてしまうのです。

今回のMoQNsは、結晶欠陥を利用するのではなく分子を埋め込む方式を採用し、粒子間のばらつきを大幅に抑えました。どのセンサーでも同じ分子構造を持つため、測定の再現性が格段に向上しています。

さらに研究チームは、ペンタセンの水素を重水素に置き換えた改良版(dMoQNs)も開発しました。重水素化によって分子内の磁気的なノイズが減少し、温度測定の精度がさらに高まっています。

温度だけでなく「化学反応」も見える

MoQNsの可能性は温度測定にとどまりません。研究チームが過酸化水素を使ってがん細胞内にフリーラジカルを発生させたところ、センサーがスピン緩和時間の変化として検出しました。しかもその変化は細胞内の場所によって異なっており、細胞質と核で酸化ストレスの状態が違うことを示唆しています。

つまりこのセンサーは、温度計であると同時に細胞内の化学的な環境を探る「探針」としても機能するのです。

記者の視点:日本の量子研究が切り開く医療の未来

量子技術というとコンピューターや暗号通信が注目されがちですが、今回の研究はそれとは異なる「量子センシング」という分野の成果です。しかも、基礎研究だけでなく医療への応用が見える形で示された点に大きな意義があります。

がん細胞の内部を「温度」という切り口で観察できるようになれば、抗がん剤が細胞のどこにどう作用しているかを追跡したり、がん細胞と正常細胞の代謝の違いをより詳細に理解したりする道が開けます。QST、東京大学、九州大学という日本の研究機関が主導している点も注目に値します。

細胞の中に「天気予報」が届く日

現時点ではまだ実験室レベルの技術ですが、研究チームはナノスケールの温度測定、細胞内の生化学的センシング、さらには量子技術を活用した生物・医療計測への展開を見据えています。1つの細胞の中の温度分布をリアルタイムで「天気図」のように可視化できる日が来れば、がんをはじめとする病気の理解は根本から変わるかもしれません。量子の力で生命のミクロな現場を観測する挑戦は、まだ始まったばかりです。