地球上のほぼすべての生き物は、同じ「遺伝暗号」のルールに従っています。DNAに書かれた4文字の組み合わせが、どのアミノ酸として読み取られるかを決め、どこでタンパク質の合成を止めるかを指示する。このルールは細菌からヒトまで共通で、だからこそ「普遍的な遺伝暗号」と呼ばれてきました。ところが、イギリスの研究チームがまったくの偶然から、このルールを破る生き物を発見しました。「生命のルールを破るDNAを偶然発見」と題された報告は、生命科学の教科書を書き換える可能性を秘めています。
オックスフォード大学の池に潜んでいた「規格外」の生物
発見の舞台は、オックスフォード大学の公園内にある池でした。イギリスのアーラム研究所の研究チームは、新しい単一細胞DNAシーケンシング技術のテストとして、池の水に含まれる微生物を調べていました。ルーティンワークのはずが、解析結果に奇妙なパターンが現れたのです。
見つかったのは、繊毛虫と呼ばれる単細胞生物の未知の種でした。繊毛虫とは、細胞の表面にびっしり生えた細い毛(繊毛)を使って泳ぎ回る原生生物のグループです。ゾウリムシもその仲間で、池や川などの淡水に広く生息しています。
「停止」の信号がアミノ酸を指定していた
この繊毛虫が破っていたルールは、遺伝暗号の中でも最も基本的な部分に関わります。DNAの情報からタンパク質を作る際、3つの文字(塩基)の組み合わせ=コドンが1つのアミノ酸を指定します。全部で64通りあるコドンのうち、3つ(TAA、TAG、TGA)は「ここでタンパク質を作るのを止めなさい」という終止コドンの役割を担っています。いわば文章の「句点」のようなものです。
ところが今回見つかった繊毛虫では、3つの終止コドンのうちTGAだけが本来の「停止」機能を保っていました。残り2つは全く別の仕事をしていたのです。TAAはリシン(必須アミノ酸の一つ)を、TAGはグルタミン酸(うま味成分としても知られるアミノ酸)を指定するように変わっていました。
これまでの研究では、終止コドンが変化する場合、2つが同じアミノ酸を指定するように変わるケースしか知られていませんでした。2つの終止コドンがそれぞれ異なるアミノ酸を作るように変化した例は、今回が世界で初めてです。
繊毛虫は遺伝暗号の「実験場」だった
この発見は孤立した例外ではありませんでした。後続の研究で、繊毛虫のさまざまな種において、終止コドンの再割り当てが独立に何度も起きていることが確認されています。学術誌PLOS Geneticsに掲載された論文では、繊毛虫が「遺伝暗号の変異の宝庫」であると指摘されています。
なぜ繊毛虫だけがこれほど自由にルールを書き換えられるのか、その仕組みはまだ完全には解明されていません。しかし一つ言えるのは、私たちが「普遍的」と信じていた遺伝暗号は、微生物の世界では進化によって繰り返し編集されてきたということです。
記者の視点:教科書の「例外」が教えてくれること
「遺伝暗号は地球上のすべての生物で共通」というフレーズは、高校の生物の教科書にも載っている基本中の基本です。しかし今回の発見は、その大前提に大きな但し書きが必要であることを示しています。
興味深いのは、この発見が最先端の研究プロジェクトではなく、技術テストの「ついで」に起きたという点です。研究チームは新しいシーケンシング手法を試していただけで、遺伝暗号の例外を探していたわけではありません。見過ごされがちな池の微生物が、生命科学の根幹に関わる驚きを隠していたのです。
まだ見ぬ「ルール破り」が水の中で待っている
今回の発見が示唆するのは、私たちが調べ尽くしたと思っている生命のルールにも、まだ未知の例外が潜んでいるかもしれないということです。世界中の池や川、土壌には、名前すらついていない微生物が無数に存在します。その中に、生命の常識をさらに覆す生き物がいても不思議ではありません。身近な池にも、生命の常識を揺さぶる発見が潜んでいることを、この小さな繊毛虫は示しています。
