新薬の研究や酵素の改良と聞くと、何年もかけて少しずつ改良を重ねる地味な世界を思い浮かべるかもしれません。実際これまでのタンパク質工学は、1つの改良候補を試すだけでも数日から1週間かかる、根気のいる作業でした。ところが、スタンフォード大学の研究チームがその常識を一気に塗り替える新手法を発表しました。Phys.orgの「バイオエンジニア、タンパク質工学と試験を1日にまで短縮」を手がかりに、設計から試験までを24時間で終わらせる「MIDAS(マイダス)」の中身と、日本のバイオ産業にとっての意味を読み解きます。
タンパク質工学のボトルネックはどこにあったのか
タンパク質はアミノ酸の並び方ひとつで働きが大きく変わるため、医薬品開発から酵素設計、バイオセンサーまで幅広い分野で「ちょっと変えたタンパク質」を大量に試す必要があります。問題は、その「試す」までが恐ろしく手間のかかる工程だった点です。
従来の流れでは、目的のタンパク質を作る設計図にあたるDNAをまず大腸菌や酵母などの微生物に導入し、コロニーを増やしてからプラスミドDNAを取り出していました。さらに哺乳類細胞で性能を確かめたい場合は、そこから改めて別の細胞に運び込む必要があります。
この一連の作業は、1つのタンパク質バリアントを評価するだけでも数日かかります。試したい候補が増えるほど時間とコストはふくらみ、研究のスピードを大きく縛ってきました。
「微生物を使わない」発想がもたらした飛躍
スタンフォード大学のマイケル・リン教授と大学院生らが開発した手法は、MIDAS(Microbe-Independent Deep Assembly and Screening)と呼ばれます。日本語に直すと「微生物に頼らない深層的な組み立てと評価」といった意味合いです。
ポイントは、設計図にあたるDNAを環状のプラスミドとして細菌や酵母で増やすという長年の常識をやめたことです。代わりに、DNAを直線的な情報としてとらえ直し、コロナ禍ですっかり有名になったPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)だけで一気に増やします。
研究チームの説明によると、朝にPCRの試薬一式を受け取り、昼までに必要な遺伝子を組み立て、夕方には細胞に導入できるといいます。設計と試験の間にあった「数日かけて細菌を育てる時間」がまるごと消える形です。MIDASの研究成果は、システム生物学を扱う査読付き雑誌Molecular Systems Biology誌に掲載されました。
どれくらい速く、どれくらい安くなったのか
数字で見ると、MIDASのインパクトはかなりの規模です。
| 評価規模 | 従来手法 | MIDAS |
|---|---|---|
| 評価数 | 24種類のバリアント | 384種類のバリアント |
| 手作業時間 | 約192時間(約8日) | 約4時間 |
| 試薬コスト | 約2万ドル(約320万円) | 約2,000ドル(約32万円) |
研究チームは、この実例をもとに、MIDASは従来のクローニング法に比べておよそ50倍速く、試薬コストは10分の1程度だと説明しています。研究室の人手も大幅に節約でき、1人の研究者がより多くの仮説を回せるようになります。
加えて重要なのが、MIDASで生まれる大量のデータそのものの価値です。アミノ酸配列とその働きの組み合わせを大量に集められるため、AIによるタンパク質設計の精度向上にも直結します。AlphaFoldなどの登場で「コンピュータでタンパク質を設計する」流れが加速するなか、現実の細胞で素早く検証できる仕組みは欠かせない土台になります。
記者の視点:日本のバイオ産業へのインパクト
日本にも有力なバイオ・製薬企業が多くあり、塩野義製薬、第一三共、武田薬品、富士フイルムなどがタンパク質関連の医薬品開発を続けています。アカデミアでも京都大学や東京大学を中心に、抗体医薬や酵素の改良研究が盛んです。
MIDASは特別な装置ではなく、すでに多くの研究室にあるPCR機器と細胞培養設備で導入できる点が大きな魅力です。「規模が大きくないラボでも、世界トップと同じ速度で試行錯誤できる」可能性がある点は、日本の中小バイオベンチャーや大学研究室にとって特に朗報といえます。
一方で、当然ながら「速くなった分、選定眼が問われる」という別の課題も生まれます。1日規模で数百のバリアントを細胞に導入し、機能評価に進められるなら、何をテストすべきかをAIや事前計算でしっかり絞り込む力がより重要になります。今後は、計算機シミュレーションと実験ハイスループット化の両輪が、日本の研究者にとっての主戦場になりそうです。
「試して学ぶ」が高速化する次の10年
タンパク質の設計と試験が1日規模で回せる世界では、新薬候補の発見、CO2固定に関わる酵素など環境分野で使うタンパク質の改良、医療用バイオセンサーの開発などが、これまでより一桁速いペースで進む可能性があります。MIDASのような手法は、いきなり世界を変える派手な発明ではないかもしれませんが、研究の「試行錯誤のサイクル」を地味に、しかし確実に短くしていく類いの技術です。
「もしこの酵素の性能をもう少し高められたら」「もしこの抗体がもう少し効いてくれたら」——そんな研究者のちょっとした願いを、現実に確かめられる時代が近づいています。日本のバイオ・製薬分野でも、いち早く取り入れた組織から新しいヒット製品が生まれてくる可能性があります。
