スマートフォンを片手で器用に操作したり、お箸で小さな豆をつまんだり。私たちは普段なにげなくやっていますが、ここまで細かい作業ができる手を持つのは、地球上では人間だけです。Phys.orgの記事「人間の手が類人猿のような祖先からどのように進化したのか、新たな知見」は、その手首にある小さな骨を55個の人類化石と多種類の現生霊長類で比べた研究を取り上げています。今回は、研究の中身と、そこから見えてくる人類進化の物語を読み解いていきます。
月状骨と三角骨に残る、アフリカ類人猿との「ほぼそっくり」
研究の中心になったのは、手首にある小さな骨の集まりである手根骨です。手根骨は8個ほどの不規則な形をした骨で、これがあるおかげで手首はあれだけしなやかに動きます。
論文では、ゴリラやチンパンジーといったアフリカに住む類人猿と現代人の手根骨を細かく比較しました。特に、月状骨と三角骨と呼ばれる、手首の内側にある2つの骨は、人間とアフリカ類人猿でほぼ同じ形をしていることが分かりました。
これは「ヒトとアフリカ類人猿は、もともとナックル歩行をしていた共通の祖先から枝分かれした」という長年の説を、解剖学の側から強く支える発見です。ナックル歩行とは、ゴリラやチンパンジーが指の関節の背中側を地面につけて四足で歩く独特の歩き方のことです。
細かい骨を「数値で比べる」ための新しい道具
それなら、なぜこれまで似ているとはっきり言えなかったのか。理由のひとつは、手根骨が小さくて形がいびつだからです。長さや幅を測ってもうまく特徴をつかめません。
研究チームは、3次元スキャンで骨の表面をすみずみまで読み取り、その形を球面調和関数という数学的な手法で表現しました。球面調和関数は、ボールの表面のような複雑な形をなめらかな波の合計として表せる仕組みで、もともとは物理学や天文学で使われてきたものです。これを骨の形に当てはめることで、ぱっと見では分かりにくい違いも数値の差として比べられるようになりました。
さらに、現生のサルや類人猿のデータをお手本として機械学習に覚えさせ、化石の手根骨が「どの仲間にいちばん近いか」を分類させています。古人類学にデータ科学が深く入り込んでいる例の一つと言えます。
道具を作る指は「人類のごく最近の発明品」
研究チームは、人類が二足歩行へと舵を切ったあと、手は突然変身したわけではなく、骨ひとつひとつがゆっくりと幅を広げたり位置をずらしたりしながら現在の形になったと結論づけています。
論文の表現を借りれば、化石人類の中には、すでに人間に近い手根骨を持つものもいれば、地面を手のひらで支えるサルに近い特徴を残すものもいます。手の進化は一気に起きた革命ではなく、何十万年単位での試行錯誤だったわけです。
道具をつくり、それを巧みに使うために大切な親指側の手首の特徴は、ホモ属になってからようやく安定して現れてくる、と研究チームは指摘しています。石器づくりや火の利用、針と糸での縫製といった作業を支えてきた器用な手は、人類進化の長い物語の中ではむしろ「最後の章」で書き加えられた特徴なのです。
記者の視点:化石とAIで読み直される人類の物語
今回の研究は、日本でも国立科学博物館などで展示されている類人猿の骨格や人類化石を、これまでとは違う「数値の目」で見直す試みでもあります。
注目したいのは、3次元スキャン、球面調和関数、機械学習という、もともとは別分野の道具を一つの研究にまとめている点です。古人類学はかつて「化石をていねいに観察する学問」というイメージが強くありましたが、今は形のデータを大量に集めて統計とAIで処理する分野へと急速に変わりつつあります。日本でも京都大学や東京大学の研究者がこうした手法に取り組んでおり、国内の化石やサル類のコレクションが新しい光で見直されていく可能性は十分にあります。
一方で、結果の解釈には慎重さも必要です。骨の形が似ているからといって、ただちに「ご先祖もナックル歩行だった」と決めつけられるわけではありません。今後、別の手根骨や肩、骨盤の解析を組み合わせることで、ヒトの祖先がどのように四足から二足へ、そして道具を使う暮らしへと変わったのかが、よりはっきり描き直されていきそうです。
私たちの手のひらが語る、ゆるやかな自由化の物語
スマホをタップする親指、ボタンをつまむ人差し指。それらを支える小さな手首の骨には、何百万年もかけて少しずつ書き換えられてきた進化の記録が残っていました。
道具を作り、文化を育てる力は、ある日突然手に入ったものではありません。木の枝をつかむ役目から、地面を歩く役目へ、そして物を細かく操る役目へ。その長い道のりの先に、今のあなたの手があります。次にスマートフォンを握るとき、その手のなかに数十万年単位の試行錯誤が眠っていることを、少しだけ思い浮かべてみてはいかがでしょうか。
