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DNAを切らずに病を治す、CRISPRの次の一手「エピゲノム編集」が臨床へ

健康診断でコレステロール値を指摘され、毎日の薬や食事制限にうんざりしている人は少なくないはずです。もし、たった1回の注射で何か月も悪玉コレステロールを抑えられるとしたら、どう感じるでしょうか。いま、その実現に挑む新しい遺伝子治療の波が起きています。鍵を握るのは、DNAを「切らない」CRISPR技術です。

英科学誌Natureは「CRISPRの次の一手:病気を治すためにエピゲノムを書き換える企業たち」と題し、この新潮流を伝えました。本記事では、従来のゲノム編集と何が違うのか、どんな病気が対象になっているのか、そして私たちの暮らしにどう関わるのかを、わかりやすく整理します。

「切る」のではなく「スイッチを切り替える」

これまでのゲノム編集、いわゆるCRISPR-Cas9は、ガイド役のRNAが目的の場所を探し当て、Cas9という酵素がDNAをはさみのように切る仕組みでした。配列そのものを書き換える強力な技術ですが、ときに狙いと違う場所を切ってしまい、遺伝子を傷つける危険がありました。

新しく注目されているのがエピゲノム編集です。DNAの文字列は一切切らず、その上に付いている化学的な目印だけを書き換えます。この目印は、遺伝子のスイッチをオンにしたりオフにしたりする役割を持っています。ある研究者は、この仕組みを「音楽のミキシング機材で曲の印象を変える」ことにたとえています。楽譜(DNA配列)はそのままに、音の出方だけを調整するイメージです。

切らないことには大きな利点があります。専門家は「DNAを間違って変異させる心配がないのが、治療としてとても魅力的だ」と語ります。DNAが切れないので配列が予期せず組み変わる危険も減り、しかも付けた目印は後から元に戻せることが、人の細胞を使った実験で示されています。

「死んだCas9」から生まれた発想

この技術の出発点は2013年にさかのぼります。CRISPRを開拓した研究室で学んだ一人の生物学者が、「遺伝子を壊すのではなく、細胞のふるまいを制御したい」と考えました。そこで、Cas9が標的のDNAにくっつくものの、切る働きだけは失うように改造したのです。切断能力を失ったこのCas9は、酵素として「死んでいる」という意味で不活性化Cas9と呼ばれました。

この「死んだCas9」に、目的の場所まで導くガイドRNAと、遺伝子のオン・オフを操作するタンパク質を組み合わせると、人の細胞でも正確に遺伝子の働きを変えられました。研究チームの一人は「これは世界を変える道具になると確信した瞬間だった」と振り返ります。

その後、技術はさらに磨かれました。古細菌という、細菌に似ているが進化的には別物の生き物から、Cas12Fという小型の部品が見つかったのです。Cas9がアミノ酸約1300個でできているのに対し、Cas12Fは約500個と小さく、細胞に届けやすいという利点があります。治療の設計図は、体に無害とされるアデノ随伴ウイルスに組み込んで体内に送り込み、細胞自身に必要なタンパク質を作らせる仕組みです。

コレステロールからB型肝炎まで

エピゲノム編集はすでに動物実験から人を対象にした臨床試験へと進みつつあります。

2025年には、マウスとサルを使った研究で、悪玉コレステロールを増やすPCSK9というタンパク質の産生を抑えることに成功しました。脂質の粒子に包んで点滴で届けたところ、たった1回の投与でサルの悪玉コレステロールが約70%下がったといいます。冒頭で触れた「1回の注射」は、決して夢物語ではないのです。

対象はコレステロールだけではありません。ある企業は2026年1月から、B型肝炎の慢性感染者に対してエピゲノム編集による治療の投与を始めました。世界保健機関によると、慢性のB型肝炎をかかえる人は世界で約2億4000万人と推定され、肝不全や肝臓がんの原因になります。既存の薬ではウイルスを完全には体から追い出せないため、遺伝子のスイッチを直接黙らせる新しい手法に期待が寄せられています。

そして、エピゲノム編集の臨床試験データがいち早く公表された病気の一つが、顔面肩甲上腕型筋ジストロフィーでした。顔や上半身の筋力低下から始まり、進行すると脚など他の部分にも障害が及ぶことがある遺伝性の難病です。日本でも神経筋疾患の専門サイトで解説されているように、原因となる遺伝子の異常な働きを抑える研究が進んでおり、エピゲノム編集はその有力な選択肢として浮上しています。

記者の視点:日本の創薬にも開く扉

エピゲノム編集が注目される最大の理由は、「安全性」と「可逆性」という二つの言葉に集約されます。DNAを切らないため取り返しのつかない傷を残しにくく、効果が行きすぎても目印を外して元に戻せる可能性がある。これは、これまで遺伝子治療につきまとってきた「一度書き換えたら二度と戻せない」という不安を和らげるものです。

日本にとっても他人事ではありません。顔面肩甲上腕型筋ジストロフィーをはじめとする難病の治療研究は国内でも進められており、エピゲノム編集の進展は日本の患者にとっても将来の治療の選択肢に直結します。また、製薬産業の競争という観点でも、この分野は欧米の新興企業が主導しています。小型のCas12Fや、遺伝子を黙らせる独自の酵素といった「中核となる技術」をどこが握るかが、今後の創薬の勢力図を左右しそうです。

一方で、慎重さを求める声もあります。ある生命倫理の専門家は「エピジェネティックな制御は、発生や生殖といった生命の根幹に深く関わる」と指摘します。遺伝子のスイッチを操作する力が強力であるからこそ、意図しない影響が出ないよう、安全な届け方を確立することが欠かせません。

「切らない遺伝子治療」が変える未来

CRISPRは登場から十数年で、DNAを「切る」段階から「スイッチを切り替える」段階へと進化しようとしています。コレステロールのような身近な健康問題から、有効な治療法が乏しかった難病まで、その応用範囲は驚くほど広がっています。

もちろん、臨床試験はまだ始まったばかりで、本当に安全で効果が続くのかは、これからのデータが答えを出します。それでも、「DNAを傷つけずに病を治す」という発想が現実味を帯びてきたことは、医療の歴史にとって大きな一歩です。次に健康診断の数値を見るとき、その向こうに広がる新しい治療の可能性を、少しだけ思い浮かべてみてもいいかもしれません。