夏になると、ノートパソコンのファンがうなりを上げて熱くなる経験は誰にでもあるはずです。コンピュータにとって熱は、計算をじゃまする厄介者。だからこそ技術者たちは、長い間その熱を必死に抑え込もうとしてきました。ところが今、その常識をひっくり返す発想が注目を集めています。「熱力学コンピュータは(エネルギーの)流れに身をまかせる」と題した科学誌の記事は、熱による揺れを敵ではなく味方につけて計算する新しいコンピュータの姿を伝えています。この記事では、その不思議な仕組みと、AIの電力問題を救うかもしれない可能性を見ていきます。
熱ノイズを「敵」から「資源」へ
コンピュータの回路には、温度によって電子がランダムに揺れる現象がつきまといます。これが熱ノイズと呼ばれるもので、計算の正確さを乱す原因になります。従来のコンピュータは、この揺れをできるだけ小さく抑えることで、0か1かをきっちり区別してきました。
これに対して熱力学コンピューティングは、まったく逆の道を選びます。ノイズを消そうとするのではなく、そのランダムな揺れそのものを計算の道具として使ってしまうのです。ある研究者は「熱力学を計算資源として活用するコンピュータを設計する分野だ」と説明します。
考え方の基礎にあるのは、自然界のふるまいです。ボールを坂の上に置けば、自然に転がり落ちて一番低い谷底で止まります。物理の世界の多くの現象は、こうしてエネルギーが低く安定した状態へと自分から向かっていきます。熱力学コンピュータは、解きたい問題をこの「坂道」の形に置き換え、系が自然に谷底へ落ち着く動きを利用して答えを得ます。人間がタンパク質の折りたたまれ方を計算で追うのが大変なのに、実際のタンパク質は一瞬で正しい形に落ち着くのと似た発想です。
このアプローチには大きく二つの流派があります。一つは、系が静かに安定した状態(つり合いの状態)に落ち着くのを待つやり方。もう一つは、あえてエネルギーを流し続けて不安定な状態のまま走らせ、その動きの途中に計算をさせるやり方です。後者は、微粒子のランダムな熱運動を記述するランジュバン方程式という物理の考え方を土台にしています。
試作機が示した「桁違い」の省エネ
こうした発想は、すでに実際の装置やシミュレーションで形になり始めています。
ノーマル・コンピューティングという米国のスタートアップは、八つの小さな振動回路(抵抗・コイル・コンデンサーを組み合わせたRLC共振回路)をつなげた試作機を披露しました。回路にちょうどよい大きさのノイズを加えると、回路全体の揺れ方が、ある種の行列計算の答えと一致するのだそうです。同社によれば、こうした計算を通常のデジタル回路より速く、しかもはるかに少ないエネルギーでこなせるといいます。
さらに驚くのが、ローレンス・バークレー国立研究所の研究者によるシミュレーションです。研究チームは、ノイズで劣化した映像をきれいに復元する処理を熱力学コンピュータで試しました。その結果、同じ処理をデジタルのニューラルネットワークで行う場合と比べて、発生する熱をおよそ1000億分の1にまで減らせる可能性が示されたのです。
商用化を狙う動きもあります。エクストロピックという企業は2025年10月、「拡張可能な確率的コンピュータ」を発表し、生成AIのような処理を従来の手法の約1万分の1のエネルギーで実行できると主張しています。数字の大きさには慎重に見る必要があるものの、削減の桁が一つや二つではないという点が、この分野への期待をかき立てています。
生き物はすでに「揺らぎ」で計算していた
この発想が突飛に思えるかもしれませんが、実は私たちの体の中では、似たことがずっと前から起きています。
細胞の中では、分子どうしが次々と信号を受け渡したり、遺伝子のスイッチが入ったりと、複雑な情報処理が絶えず行われています。しかもそれは、ほとんどエネルギーを無駄にせず、熱の揺らぎをうまく利用しながら進んでいます。ある研究者は「自然は、進化によってプログラムされたランジュバン・コンピュータを使っている」と表現します。生命そのものが、熱の揺れを味方につけた究極の省エネ計算機だというわけです。
こう考えると、熱力学コンピューティングは奇抜な新技術というより、自然界がとっくに使いこなしていた仕組みを、人間がようやく回路の上で真似しようとしている試み、と言えるのかもしれません。
記者の視点:AIの電力危機を救う一手になるか
この技術が日本にとって見過ごせないのは、いま世界が直面しているAIの電力問題と真正面からつながっているからです。
生成AIの普及で、データセンターの消費電力は急増しています。大量の計算をこなすたびに膨大な電気を食い、大量の熱を出す。この構図は、電力供給や環境負荷の面で世界共通の悩みになりつつあります。もし熱力学コンピュータが実用化され、消費エネルギーを桁違いに下げられるなら、AI時代のエネルギー問題を大きく和らげる可能性があります。
もう一つ注目したいのは、この技術のハードルの低さです。よく比較される量子コンピュータは、絶対零度近くまで冷やしたり、壊れやすい量子の状態を保ったりと、扱いが非常に難しいものでした。一方、熱力学コンピュータは、ありふれた半導体の部品で作れる見込みがあります。半導体の設計や製造に強みを持つ日本の企業や研究機関にとって、これは早い段階から関われる余地が大きいテーマだといえるでしょう。
「1990年のAI」から始まる次の30年
もっとも、熱力学コンピューティングはまだ生まれたばかりの分野です。研究者たちは、この技術の成熟度を「1990年代の量子コンピュータと同じくらい」と表現します。今の試作機がこなせる仕事は、ざっくり言えば1990年ごろの小さなニューラルネットワーク程度にすぎません。
それでも、量子コンピュータがその後30年で驚くほど進歩したことを思い出せば、熱力学コンピュータの伸びしろも期待できます。規模を大きくし、賢い学習方法を組み合わせていけば、性能は大きく育つ可能性があります。
熱を抑え込むのではなく、熱の流れに身をまかせて計算する——。この一見あまのじゃくな発想が、電力を食いすぎるAIの未来をしなやかに変えていくのか。次の10年、静かに、しかし着実に注目していきたい分野です。
