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アザラシだけが持つ「水陸両用の耳」、その進化の謎が解けた

プールや海にもぐったとき、水の中で誰かに話しかけられても、何を言っているのかさっぱり聞き取れなかった経験はないでしょうか。どれだけ大きな声を出しても、水中ではこもった音にしか聞こえません。これは、私たち人間の耳が空気を伝わる音を聞くようにできているからです。ところが、水の中でも陸の上でも同じようにしっかり聞き取れる、特別な能力を持つ動物がいます。それがアザラシです。「アザラシは耳に独特の“超能力”を持っていた。その進化の仕組みがついに解明された」という研究成果から、その驚きの仕組みと進化の歴史を見ていきます。

なぜ人間は水中で音が聞こえにくいのか

まず、私たちの耳の仕組みを確認しておきましょう。陸の上で暮らす人間の耳は、空気を伝わってきた音を耳の穴(耳道)から取り込み、鼓膜のある中耳を経由して、音を処理する内耳へと届けます。この中耳が、いらない音をふるい分ける役割を果たしています。

問題は水中です。水は骨とよく似た密度を持っているため、水中では音が空気中の約4倍もの速さで伝わります。すると音は中耳を通らず、筋肉や骨を直接ふるわせて内耳に届いてしまいます。中耳による「音の交通整理」がきかなくなるので、雑音が混ざってこもったように聞こえるのです。

理屈のうえでは、空気中と水中の両方でうまく聞き分けることは、哺乳類にとって不可能に近いはずでした。多くの哺乳類は、イヌや人間のように空気中でよく聞こえるか、クジラのように水中でよく聞こえるか、どちらか一方に特化しています。両方をこなせるアザラシの能力は、まさに「超能力」と呼べるものなのです。

カギは血液で満たされる「スポンジ状の組織」

研究チームは、この謎を解くために世界中の博物館が所蔵するアザラシの標本を集め、耳の内部を立体的にスキャンしました。すると、アザラシの耳道と中耳に、海綿状組織と呼ばれる特別な組織があることがわかりました。

これは血管をたくさん含んだスポンジのような組織で、アザラシが深くもぐると血液で満たされてふくらみます。これによって、水圧によるダメージから耳を守り、耳の内側の圧力を調整しているのです。

さらに重要なのが、血液の密度が海水とよく似ているという点です。そのおかげで、この組織は水中の音を中耳へと伝える通り道にもなります。研究によると、海綿状組織を通った水中の音は、失われる信号がわずか1%未満にとどまります。もし耳の中が空気のままだったら、音の99%は失われてしまう計算です。アザラシは体の一部を「水と似た性質」に変えることで、水中の音を逃さずキャッチしているというわけです。

2600万年前に起きた進化の分かれ道

では、この見事な仕組みはいつ、どのように生まれたのでしょうか。アザラシは、イヌやクマ、ネコと同じ食肉目という大きな哺乳類グループの一員です。研究チームは、現代のアザラシに加えて、陸で暮らす食肉目の仲間や、アザラシの祖先にあたる絶滅した化石種の耳を比べ、それぞれが水中で聞けたかどうかを統計的に推定しました。

その結果、アザラシの最も古い祖先である淡水性の絶滅種は、私たち人間と同じように空気中でしか聞けなかったことがわかりました。転機となったのは約2600万年前です。最初期の海生アザラシ類が、両生類的聴覚(水中と空気中の両方で聞ける能力)を初めて手に入れたのです。

ただし、この能力は最初から完璧だったわけではありません。初期のアザラシは、空気中でも水中でも、かえって聞こえが悪くなってしまう時期を経験しています。その後、現代のアザラシにつながる仲間が中耳の構造を改良し、ようやく両方の環境で鋭く聞き取れるようになりました。とくに約1300万年前の古いアザラシは、水中での聴覚が非常に優れていたことがわかっています。今のアザラシの「超能力」は、長い試行錯誤の末にたどり着いた進化の到達点なのです。

記者の視点:歌い、まねをする「音の名手」たち

アザラシの音にまつわる能力は、聞くことだけにとどまりません。アザラシは水中で歌うことでも知られ、その一部は人間には聞こえないほどの高音に達します。南極海にすむロスアザラシは、まるで宇宙船のような高い声で仲間に歌いかけるといいます。日本でも、京都大学の研究者がアゴヒゲアザラシの水中での“歌”を紹介しており、アザラシがいかに音を巧みに使う動物かがうかがえます。

さらにアザラシは、リズムを刻む能力で人間を上回るという実験結果もあり、これは動物界ではとても珍しいことです。米国では、漁師の言葉をまねた「しゃべるアザラシ」フーバーが有名になりました。こうした発声のまね(模倣)は、人間の言葉がどう進化したのかを探る研究の最前線にもなっています。愛らしい見た目のアザラシが、実は音声コミュニケーションの研究において重要な手がかりを握っているというのは、なんとも興味深い話です。

静かな海を守ることが、アザラシの超能力を守る

一方で、この優れた聴覚には新たな脅威が迫っています。船の航行や海底工事、ソナーなどによって、海の中は年々騒がしくなっています。にぎやかな居酒屋で相手の声が聞き取りにくいのと同じように、海の哺乳類も人間が出す騒音のせいで仲間の声を聞き取りづらくなっているのです。大きすぎる水中の音は、聴覚に一時的、あるいは深刻なダメージを与えることさえあります。

救いなのは、対策が意外とシンプルだという点です。たとえば、海の生き物が多い海域で船の速度を落とすだけでも、騒音を減らす効果が高いことがわかっています。日本は四方を海に囲まれ、多くの海洋生物と共に暮らす国です。アザラシが数千万年かけて磨き上げた「水陸両用の耳」を未来へ残すために、私たちにできることは決して少なくありません。海の静けさを守る工夫が、豊かな海の暮らしを守る第一歩になるはずです。