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誰も覚えていないのに集団は逃げない、ゴキブリが持つ「社会の記憶」

台所でゴキブリと出くわしたとき、彼らは何も考えずにただ散り散りに逃げていく、と感じたことはないでしょうか。一匹一匹はただ本能のままに動く小さな虫で、そこに「集団としての判断」などあるはずがない。多くの人がそう思っているはずです。ところが、その思い込みを静かに崩す研究があります。「社会ネットワークから立ち上がるゴキブリの集合的記憶」という報告によると、ゴキブリの群れは、誰一人として覚えていないはずの過去の選択を、集団としてしぶとく守り続けるというのです。この記事では、その不思議な現象がどんな実験で確かめられ、私たちの社会に何を示すのかを見ていきます。

光を入れ替えても動かなかった群れ

研究チームが使ったのは、暗く湿った場所に集まる習性を持つワモンゴキブリでした。用意したのは、明るさ以外はまったく同じ二つの隠れ家です。片方は赤い光で照らされ、もう片方は緑の光で照らされていました。ゴキブリには赤い光のほうが暗く見えて心地よく感じられるため、予想どおり多くの個体は赤い隠れ家に集まりました。

なぜこんな実験をしたのでしょうか。暗い隙間が突然まぶしい部屋に変わってしまったら、賢い生き物なら荷物をまとめて別の暗がりを探すはずです。ところが、集団の行動を扱う理論は、群れがいったん下した決定に縛られ、環境が変わって合理的でなくなってもその選択を続けることがある、と予測してきました。実際、2015年の先行研究では、ワモンゴキブリの群れが一時的な環境の乱れに驚くほど強いことがわかっていました。研究チームが知りたかったのは、その粘り強さが「元に戻らない永続的な変化」でも続くのか、という点でした。

面白いのはここからです。研究チームは、集まったあとで二つの光をこっそり入れ替えました。それまで居心地のよかった赤い隠れ家は緑の光に変わり、避けられていたほうが赤い光になったのです。

一匹だけでいたゴキブリは、緑に変わった場所を嫌ってさっさと赤い隠れ家へ引っ越しました。ところが、十分な数の仲間とすでに落ち着いていた群れは、光が悪くなっても動きませんでした。まるで「ここが自分たちの居場所だ」と決めた過去の判断を、集団として手放さなかったかのようでした。

覚えているのは個体ではなく「関係」

では、一匹一匹のゴキブリが「元はここが良かった」と記憶していたのでしょうか。研究チームの答えは「いいえ」でした。

鍵になっているのは、ゴキブリが持つとても単純な性質です。それは、仲間が休んでいる場所にとどまりたがる、というものです。ある場所に一定数が集まると、その仲間同士の引き合う力が、「暗いほうへ移りなさい」という環境からの合図よりも強くなります。こうして群れは、光が変わっても元の場所に居続けます。

つまり記憶は、ゴキブリの頭の中ではなく、個体どうしのつながりそのものに蓄えられていたのです。研究チームはコンピューター上でも同じ状況を再現しました。「赤い光を好む」「仲間のそばにとどまる」という二つの簡単なルールを与えただけの仮想のゴキブリたちが、やはり元の隠れ家に固執したのです。どの一匹にも記憶を持たせていないのに、群れ全体はあたかも覚えているかのように振る舞いました。

記者の視点:これは虫だけの話ではない

この研究がぞくりとさせるのは、同じ仕組みが私たち人間の組織にもそのまま当てはまって見えるからです。誰か一人が古いやり方に固執しているわけではないのに、周りに合わせて動くうちに、集団全体が時代遅れの選択にしがみついてしまう。会社の慣習や、業界の「暗黙のルール」が、状況が変わってもなかなか変わらないのは、まさにこの「社会構造に宿る記憶」なのかもしれません。

単純な個々のふるまいから、全体として賢そうな性質が自然に生まれる現象を創発と呼びます。近年のAIやロボットの世界では、多数の小さな単位を協調させて群れのように動かす「群知能」の研究が盛んです。ゴキブリの群れは、個の記憶に頼らず集団だけで過去を保つという、その設計のヒントを先取りしているように見えます。日本でも災害時の探索ロボットや自律的な物流の分野で、こうした群れの仕組みは注目されています。

足元の虫が教える、集団という不思議

研究チームは、この現象がゴキブリに限らないだろうと考えています。魚の群れ、鳥の編隊、アリやハチのコロニー、そしておそらく人間まで、集団で物事を決める生き物のどこにでも潜んでいる可能性があるといいます。それがどれほど広く見られるのかは、これから確かめていくべき問いです。

嫌われ者として逃げられるばかりのゴキブリが、実は「集団とは何か」という深い問いへの入り口になっている。次に台所の片隅で彼らを見かけたら、ほんの少しだけ、そこに宿る見えない記憶に思いをはせてみるのも面白いかもしれません。