海辺の岩場や水族館で、ゆらゆらと触手を揺らすイソギンチャクを見かけたことがあるでしょう。脳もなく、上下はあっても顔と呼べる部分すらない、私たちとはまるで別世界の生き物です。ところが、その体の奥に、私たち人間の体を形づくるのと同じ「設計図」が隠れていたとしたら、少し不思議な気持ちになりませんか。ポピュラーメカニクス誌の記事「科学者が海底で人体の設計図を発見したかもしれない」は、まさにその意外なつながりを伝えています。この記事では、イソギンチャクと私たちを結ぶ古い仕組みと、それが進化の歴史に投げかける問いを見ていきます。
脳もないイソギンチャクが、なぜ人体の話に登場するのか
ヒトから最もかけ離れた生き物を挙げるとしたら、イソギンチャクはかなり上位に来るはずです。水の中で暮らし、脳を持たず、体は中心の点を軸にぐるりと放射状に広がっています。クラゲの「顔」がどこにあるのか誰も答えられないのと同じで、イソギンチャクにも前後左右という感覚はうすいのです。こうした体のつくりを放射相称と呼びます。
一方、私たち人間の体は左右がほぼ対称に作られています。右手があれば左手があり、内臓の配置にも背中側とお腹側という一定の順序があります。このタイプを左右相称といい、ヒトを含む多くの動物がここに分類されます。放射相称のイソギンチャクと左右相称のヒトは、体の基本設計からしてまるで違う。だからこそ、その両者が同じ仕組みを使って体を作っていたという発見は、研究者たちを驚かせました。
体のどこに何を作るかを決める「分子の使い」
その仕組みの中心にいるのが、骨形成タンパク質(BMP)と呼ばれる分子です。名前に「骨」とありますが、ここで大事なのは骨作りそのものではありません。BMPは、生まれたばかりの胚の細胞に対して「あなたは体のこのあたりにいる」「だからこの種類の組織になりなさい」と伝える、いわば分子の使いのような役割を果たします。
面白いのは、その伝え方です。BMPを抑える働きを持つコーディンというタンパク質が、単にブレーキをかけるだけでなく、BMPを運ぶ「シャトル(送迎役)」としても動きます。この運搬によって、胚の中にBMPの濃さのグラデーションが生まれます。おおまかな目安として、BMPが最も薄い場所では中枢神経系のもとができ、中くらいの場所では腎臓のもと、最も濃い場所ではお腹側の皮膚ができる、といった具合に組織のタイプが分かれていきます。この濃淡の地図をたよりに、左右相称動物は背中からお腹までの体の配置を決めていきます。この一連の運搬の流れがBMPシャトリングです。
イソギンチャクも同じ運び役を使っていた
ウィーン大学の研究チームは、放射相称であるはずのイソギンチャクの体の中で、コーディンがまさに左右相称動物と同じようにBMPの運び役として働いていることを突き止めました。ハエやカエルといった、系統的にかなり遠い動物たちで見られてきたのと同じやり方を、脳すら持たないイソギンチャクが使っていたのです。研究は2025年、学術誌サイエンス・アドバンシズに発表されました。
これが意味するのは、この仕組みが刺胞動物(イソギンチャクやクラゲの仲間)と左右相称動物が枝分かれするより前から存在していた可能性です。両者の体のつくりは大きく異なるため、分かれた時期はかなり古く、およそ6億〜7億年前までさかのぼると考えられています。研究者の一人は、この運搬の仕組みが遠くかけ離れた動物たちに繰り返し現れる点を指摘し、共通祖先が持っていた古い体づくりの手法だった可能性が高いと述べています。
記者の視点:進化を「一直線の進歩」で見ないために
この発見が投げかける問いは、単なる雑学にとどまりません。私たちはつい、進化を「単純な生き物から複雑な生き物へ」と一直線に進むものと考えがちです。しかしイソギンチャクのような一見素朴な生き物が、私たちと同じ高度な体づくりの手法を共有していたとなると、その見方は揺らぎます。
もちろん、慎重に見るべき点もあります。研究者自身が、イソギンチャクと左右相称動物がそれぞれ独自に左右相称の体を進化させた可能性を完全には否定できない、と認めています。同じ道具が共通祖先から受け継がれたのか、それとも別々に発明されたのか。その線引きははっきりとはつきません。それでも、もし両者の最後の共通祖先が左右相称の体を持っていたなら、その祖先はコーディンを使ってBMPを運び、背中とお腹の軸を作っていたと考えるのが自然だ、というのが研究チームの見立てです。冒頭で感じた「別世界の生き物」という印象は、6億年という時間をさかのぼると、案外あいまいになっていくのかもしれません。
海底から見えてくる、私たちの体の来歴
脳もないイソギンチャクの中に、私たちの体を形づくるものと同じ古い設計の一部が眠っていた。この事実は、生き物どうしのつながりが、見た目の隔たりよりずっと深いところで結ばれていることを教えてくれます。今回の研究は、体の設計がいつ、どのように生まれたのかという発生生物学の大きな問いに、新しい手がかりを一つ加えました。
次に水族館でイソギンチャクの前に立ったとき、その揺れる触手の奥に、はるか昔の共通祖先から受け継がれた設計図を思い浮かべてみてください。遠い親戚に、静かに再会するような感覚が味わえるはずです。
