「不気味な遠隔作用」――物理学者アルベルト・アインシュタインがそう呼んだ量子もつれは、複数の量子が互いに関連し合い、一方の状態が決まるともう一方の状態が瞬時に確定するという、量子力学特有の現象です。この不思議な現象は長らく科学者の探求心を刺激してきましたが、今、量子コンピュータの実現に向けた大きな一歩となる可能性を秘めています。
科学ニュースサイトScienceAlertで報じられた「2つの原子核の中心部で量子もつれを達成した画期的な研究」によると、約20ナノメートル(1メートルの10億分の1)という極めて短い距離を隔てた2つの原子核間で、量子もつれが初めて実証されました。これは、量子状態が持つ情報である量子情報を格納する、極めて精密で信頼性の高いシステムを用いた大きな進展です。
離れた原子核同士は、一体どのようにしてつながったのでしょうか。この記事では、その画期的な仕組みと、私たちの未来に与える影響を分かりやすく解説します。
量子もつれの基礎と原子核の優位性
量子もつれとは?古典コンピュータとの決定的な違い
そもそも量子もつれとは何でしょうか。これは、原子や電子のような非常に小さな粒子である量子が、互いに深く結びついた状態になる現象です。まるでペアになった粒子の一方の状態が決まると、どれだけ遠くに離れていても、もう一方の状態が瞬時に決まるという不思議な関係性を持ちます。
この現象は、私たちが普段使っているコンピュータ(古典コンピュータ)とは全く異なる原理で動く量子コンピュータにとって、非常に重要です。
古典コンピュータは「0」か「1」のどちらかの状態しか取れない「ビット」で計算しますが、量子コンピュータは「0」と「1」の状態を同時に表現できる「量子ビット」という情報の基本単位を使います。この「重ね合わせ」という性質に加え、量子もつれによって複数の量子ビットを結びつけることで、計算能力を爆発的に増大させることができるのです。
例えるなら、古典コンピュータが「電球のオン・オフ」で情報を扱うのに対し、量子コンピュータは「調光機能付きの電球」のように多数の状態を同時に扱えます。そして量子もつれは、これらの「調光電球」が連携し、複雑な問題を一気に解き明かすための特別な「絆」のような役割を果たします。
なぜ原子核が量子情報の保持に適しているのか
今回の研究では、量子もつれを原子核という原子の中心にある非常に小さな部分で実現しました。原子核は陽子と中性子で構成されており、その小さなサイズにもかかわらず、安定性が極めて高いという特徴があります。原子核が持つスピン(素粒子が持つ自転のような性質)は、量子情報を長期間にわたって安定して保持できるため、高品質な量子ビットとして理想的だと考えられています。
これまで、原子核間でもつれを起こすには、原子核同士を非常に近くに配置する必要がありました。しかし、今回の研究では離れた原子核をつなぐことに成功し、量子ビットの安定性と高い制御性を両立させる道を開いたのです。
離れた原子核をつなぐ「電子の電話」
従来の限界を乗り越えた新技術
今回の研究で最も注目すべきは、これまで不可能とされてきた「離れた原子核同士の量子もつれ」を実現した点です。その鍵となったのが、電子を「電話」のように利用する画期的なアイデアでした。
これまでの実験では、原子核のスピンを相互作用させるために、原子核同士を隣接させる必要がありました。しかし、この方法では扱える原子核の数に限界があり、大規模な量子コンピュータの実現を妨げる一因となっていました。
そこで研究チームは、原子核よりもはるかに小さく、空間的に広がる性質を持つ電子を仲介役として使う方法を考案しました。2つの電子が少し離れていても互いに影響を与え合う性質を利用し、それぞれの電子に原子核をつなげることで、離れた原子核同士が間接的に情報をやり取りできるようになったのです。まさしく、電子が原子核間の「電話」として機能したと言えるでしょう。
この情報の橋渡しには「geometric gate」という特殊な量子操作手法が用いられました。これは、電子の状態を巧みに操り、2つの原子核がもつれた状態を作り出すための高度な技術です。
シリコンチップへの統合が未来を拓く
今回の実験で、2つのリン原子の原子核は、約20ナノメートルの距離で量子もつれを起こしました。この距離は、私たちが日常的に使うスマートフォンやPCに搭載されている集積回路のトランジスタが作られるスケールとほぼ同じです。
これは、将来的に量子コンピュータの心臓部である量子ビットを、既存のシリコンチップ製造技術と統合できる可能性を示唆しています。もし実現すれば、高性能な量子コンピュータを効率的に、そして大規模に製造できるようになり、量子コンピュータがより身近な存在になるための大きな一歩となるでしょう。
量子コンピュータが変える社会と日本の役割
私たちの生活はどう変わる?具体的な応用分野
量子コンピュータが実用化されれば、私たちの生活に様々な恩恵をもたらすと期待されています。
- 画期的な新薬の開発: 分子の複雑な挙動を正確にシミュレーションし、これまで不可能だった画期的な新薬の発見を劇的に早める可能性があります。
- 高性能な新素材の開発: より軽く、強く、環境に優しい素材の開発が期待されます。例えば、エネルギー効率の高い太陽電池や、二酸化炭素を効率的に固定する新素材などが考えられます。
- 高精度な気象予測: 複雑な気象現象のモデル化が飛躍的に向上し、より正確な長期予報や異常気象への早期対応が可能になるかもしれません。
- 金融分野の革新: 複雑な金融市場の分析やリスク管理が高度化し、経済活動の安定化や効率化に貢献することが期待されます。
世界の開発競争と日本の立ち位置
量子コンピュータの開発は、アメリカ、中国、ヨーロッパ諸国などが巨額の投資を行う国家的なプロジェクトとして世界中で進められています。
今回の研究は、オーストラリアのUNSWシドニー(ニューサウスウェールズ大学)に所属するAndrea Morello教授のチームによる成果ですが、既存の半導体技術と親和性の高いシリコンを用いるこのアプローチは、日本の強みである半導体製造技術を活かすチャンスでもあります。日本も理化学研究所や大学を中心に研究開発を進めており、この技術が実用化されれば、世界の量子技術開発競争において、日本がさらに存在感を高めることが期待されます。
「不気味な遠隔作用」から実用技術へ
今回の「離れた原子核間での量子もつれ実証」という成果は、単なる物理学上の発見にとどまりません。量子コンピュータを「特殊な研究設備」から「身近な技術」へと進化させる、具体的で力強い一歩です。特に、既存の集積回路技術と親和性の高いシリコン上で、安定した原子核の量子情報を「電子の電話」で遠隔操作できる可能性が示されたことは、大きな転換点となり得ます。
この技術が進展すれば、より多くの量子ビットを持つ量子コンピュータが効率的に製造され、これまで計算不可能だった領域の課題解決に貢献するでしょう。新薬、新素材、気象予測、金融など、その恩恵は社会のあらゆる分野に及びます。
アインシュタインが「不気味」と表現したミクロの世界の現象が、私たちの社会を根底から変える可能性を秘めています。最先端の科学がどのように未来の「あたりまえ」を創造していくのか、これからも注目していく必要があります。