1986年に起きたチェルノブイリ原発事故。生命を寄せ付けないはずのその廃墟で、1997年に奇妙な黒いカビが繁殖しているのが発見されました。このカビはただ生き延びていたわけではありません。英BBCのニュース「チェルノブイリで発見、放射線を「食べる」謎の黒い菌類」によると、このカビは最も汚染が激しい原子炉に向かって、まるで放射線を求めるように成長していたのです。
放射線に引き寄せられる性質「放射線走性」
調査の結果、この黒いカビは植物が太陽光に向かうように、菌糸を放射線源の方向へ伸ばす性質を持つことが判明しました。この現象は「放射線走性」と名付けられました。通常、DNAやタンパク質を破壊する電離放射線は、生物にとって極めて有害です。しかしこのカビは、その放射線に引き寄せられ、まるで栄養源にするかのように成長していたのです。これは、放射線と生命の関係についての常識を覆す発見でした。
このカビが黒い理由は、人間の肌や髪にも含まれる「メラニン」という色素を豊富に持つためです。メラニンは通常、紫外線から体を守ることで知られていますが、このカビにおいては、有害な放射線に対する「盾」の役割を果たしていると考えられています。
この発見は、チェルノブイリの謎を解き明かすだけでなく、放射線という脅威を利用して成長する生命の存在を示唆するものでした。その応用は、汚染地域の浄化から宇宙飛行士の保護技術にまで期待が寄せられています。
「放射線合成」の可能性と宇宙への応用
チェルノブイリの黒いカビは、単に放射線から身を守るだけでなく、そのエネルギーを成長に利用しているのではないか。そんな驚くべき可能性を示唆するのが、「放射線合成」という理論です。
放射線エネルギーを代謝に変換する仕組み
ある研究では、メラニン色素を豊富に含むカビが、放射線のない環境に比べて、放射線のある環境では成長が速まることが示されました。これは、植物が太陽光をエネルギーに変えて成長する「光合成」のように、カビが放射線のエネルギーを生命活動に直接利用している可能性を示しています。
しかし、この現象はすべての菌類で一貫して見られるわけではありません。例えば、2006年の研究では、チェルノブイリで収集されたメラニンを持つ菌類47種のうち、放射線源に向かって成長したのはわずか9種でした。また、2022年の米サンディア国立研究所の研究では、放射線を浴びせても菌の成長に変化は見られなかったと報告されており、研究者の間でも見解が分かれています。
専門家によれば、電離放射線のエネルギーは、光合成で利用される可視光線の数百万倍にも達します。この強力なエネルギーを利用するには非常に効率的な変換装置が必要で、その役割をカビの細胞壁に含まれるメラニンが担っていると考えられているのです。
この「放射線合成」の理論はまだ仮説段階ですが、もし仕組みが解明されれば、生命のエネルギー利用に関する私たちの理解が根本から変わるかもしれません。
SFが現実に?宇宙での活用法
このカビが持つ放射線への耐性と利用能力は、宇宙開発の分野で大きな注目を集めています。特にNASAは、宇宙飛行士の保護や、月・火星での建築材料としての活用を検討しています。
地球の大気や磁場に守られていない宇宙空間には、人体に有害な銀河宇宙線が飛び交っています。これは鉛さえ容易に透過する高エネルギーの放射線で、宇宙飛行士にとって深刻な健康リスクとなります。
そこで期待されているのが、「マイコ・アーキテクチャ」という構想です。これは、菌類を月や火星で栽培し、建築材料や家具として利用する技術です。放射線をエネルギー源として成長する菌類が、宇宙線を遮る「生きたシールド」になれば、打ち上げコストを大幅に削減し、安全性を高めることができます。
実際に、チェルノブイリで見つかった菌の一種を国際宇宙ステーション(ISS)で培養した実験では、地球上より約1.2倍速く成長したとの報告もあります。しかし、この研究に携わったある生化学者は、この成長促進が放射線をエネルギー源とした結果だと確信しているわけではない、と指摘しています。無重力という地球上にはない要因が成長を促した可能性も考えられるというのです。 さらに、菌が成長するにつれて放射線が遮蔽される効果も確認されており、メラニンを持つ菌類が宇宙放射線に対する驚くべき防御能力を持つ可能性を示しています。
日本における可能性と研究の現状
チェルノブイリで発見された黒いカビの特異な能力は、日本国内でも注目されています。放射性物質による汚染地域の浄化や、放射性廃棄物の管理といった課題に対し、このカビが持つメカニズムを応用する可能性が議論されています。
また、宇宙開発分野でも、このカビの放射線耐性は大きな関心事です。将来の有人宇宙探査では、宇宙飛行士を危険な宇宙放射線から守る技術が不可欠であり、自己増殖する「生きた盾」は非常に魅力的な選択肢となります。
日本でこのカビそのものを対象とした大規模な研究はまだ限定的ですが、放射線に耐性を持つ微生物や菌類に関する研究は進められています。古くから菌類研究が盛んな土壌を持つ日本において、この国際的な発見が国内の関連研究をさらに加速させるきっかけになるかもしれません。
記者の視点:逆境を力に変える生命のしたたかさ
チェルノブイリと聞けば、多くの人が人類の過ちがもたらした「死の土地」を思い浮かべるでしょう。しかし、その最も汚染された場所から、未来の希望となりうる発見が生まれたという事実は、非常に示唆に富んでいます。
人間が作り出した極限環境は、皮肉にも生命の新たな可能性を試す「壮大な実験場」となりました。私たちが「脅威」と見なすものを、ある生命は生きるための「糧」として利用する。この黒いカビは、環境に適応し、逆境すら力に変えてしまう生命の驚くべきしたたかさを見せつけてくれます。
この話は、単に珍しいカビの発見に留まりません。「生命とは何か」「環境への適応とはどういうことか」。そんな根源的な問いを私たちに投げかけ、常識がいかに限定的なものかを教えてくれるのです。
チェルノブイリの菌類が拓く未来
チェルノブイリの黒いカビの物語は、私たちに生命の未知なる可能性と、科学が拓く未来への期待を抱かせてくれます。放射線を「食べる」という、まるでSFのような現象が、現実の研究テーマとして世界中の科学者の注目を集めているのです。
この研究が進み、「放射線合成」のメカニズムが解明されれば、その応用範囲は計り知れません。宇宙空間での放射線防護から、地球上の汚染問題まで、私たちが直面する課題に全く新しい解決策をもたらす可能性があります。
実用化には多くの研究が必要ですが、この発見が私たちの視点を変えたことは確かです。絶対的な「脅威」だと思われていた放射線が、見方を変えれば生命の「糧」にもなり得る。この事実は、自然界の奥深さと、生命の驚くべき多様性、そして逆境に適応する力のすごさを物語っています。
チェルノブイリという悲劇の地から生まれた小さなカビが、人類の未来を明るく照らす大きな希望の光となるかもしれない。私たちは今、そんな生命のフロンティアの入り口に立っているのです。
